本日の聖書 ルカによる福音書22章3〜4節
「十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談を持ちかけた。」
宣教題「入り込む悪魔」 牧師 新保雅雄
ルカ福音書は、いよいよ受難物語に入っていきます。神の御心に従順に従われる主イエスと、自分中心に生きようとする人々の様子が、対照的に描かれています。本日の聖書は、今まで信頼を得ていた弟子が、悪魔によって一瞬のうちに神に敵対する者になっていく、恐ろしさが描かれています。
除酵祭が近付いている時です。12使徒の一人で、イスカリオテのユダにサタンが入りました。ユダは、祭司長や神殿守衛長たちに「イエスを引き渡しましょうか」と相談を持ち掛けました。
ユダは、主イエスが選ばれた12人の使徒として、教えを間近で聞き、病気で苦しむ人を癒す奇跡を何度も見てきました。しかし、そのユダが、師である主イエスを裏切るのです。
ユダのことを裏切り者の悪人だと思われるかも知れません。しかしユダは、サタンが入ったことで主イエスを裏切るのです。それまでのユダは、他の弟子たちと同じく主イエスに従い、行動を共にしていたのです。そして金庫番として大きな信頼も受けていました。
ユダに起こったことを、決して他人事として考えてはいけません。金貨30枚で主イエスを売り渡した裏切り者。ユダに起こったことは、今日の私たちにも起こるのです。
キリスト者として人生を送りたい。しかしユダがそうであった様に、一瞬にしてサタンが入り込み神とは反対の方へ引きずられることが起こる。だからこそ、私たちは、聖書に親しみ、祈りをもって神と交わり、聖霊の助けを受ける必要があります。悪魔はすぐ身近に潜んで神から離すチャンスをうかがっています。
本日の聖書 ルカによる福音書21章12〜13節
「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる」
宣教題「あなたの口と共にある」 牧師 新保雅雄
主イエスは、キリスト者への迫害が迫っていること、そして迫害に対する心構えを語られました。
現在の私たちには、迫害と言っても、なかなか分かりづらいことですが。今から72年前の戦時中、そして戦国時代の日本であれば、キリスト教信仰者への迫害や弾圧があり、逮捕されて獄中で死を迎えた方も沢山いました。しかし、現在の日本では、主イエスを信じることで当局へ逮捕されるといった迫害は、ありません。
しかし2千年前に十字架で殺された外国の人を神の子、救い主だと信じることは、周りから見れば不思議な目で見られることが多々あります。「神を信じるなんて弱い者のすること」「信じて何かよいことがあったのか」「おまえの言う愛って何だ」と興味本位の質問をされることが、あるかも知れません。また、聖書の事を話すとからかわれることもあります。
若い頃の友人は言います。「こいつこの間まで不良だったのに今牧師なんだって、ホントかね?」と皆の前で挑発されることがあります。茶かされるという迫害は、今でも度々経験することです。
こうした迫害を受けることは、出来れば避けたいものです。ところが主イエスは、「それはあなたがたにとって証しをする機会となる」(21:13)と言われます。この時こそ伝道の機会だと言うのです。
何を語ろうか心配しなくてもいい。「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授ける。」ただ主イエスを信じて、そのとおりに実践する事です。主は、神の働き手、御用をされるものを、決して捨ておかれはしません。
本日の聖書 ルカによる福音書20章22〜25節
「『ところでわたし達が皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。』イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。『デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。』彼らが『皇帝のものです』と言うと、イエスは言われた。『それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』」
宣教題「信仰と社会」 牧師 新保雅雄
本来、自分の悪い所を指摘してくれる人は、有り難い存在なのですが、悲しいことに、その大事な人を律法学者や祭司長たちは、素直に受け入れることはできませんでした。
そこで主イエスを何とか陥れ、ローマ皇帝に訴えようと考えたのです。そして彼らは、悪意に満ちた質問を投げ掛けたのでした。
「わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、
律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
当時のローマ皇帝は、半ば神格化されていましたので、ローマに税金を納めることは、ローマ皇帝を神として崇めることにつながるのです。ユダヤ人は快く思っていませんでした。
もし主イエス様が、ローマ皇帝に税金を納めることは律法に適っていないと公に答えれば、ローマへの反逆罪になるのです。
しかし主イエスは、デナリオン銀貨を取り上げ「そこには、誰の肖像と銘があるか」と問い返しました。彼らが、「皇帝のものです」と答えると、主イエスは、「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と答えられました。
信仰は、現実社会から逃避して自分勝手に生きるためのものではありません。むしろ、与えられた信仰による人生を、人や社会のために用いる時に、地の塩、世の光としての信仰の実りがあるのです。
信仰とは、あのオームのように現実社会から逃避するためのものではなく、愛をもって支えあう豊かな社会にする力になるのです。
本日の聖書 ルカによる福音書2章41〜49節
「さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れに中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者達の真ん中に座り、話を聞いたり質問をしたりしておられるのを見つけた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。『なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。』するとイエスは言われた。『どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。』」
宣教題「結びなおされる」 牧師 新保雅雄
主イエスが12歳になった時のことです。両親ヨセフとマリアは、少年イエスと共に、過越祭にエルサレム神殿詣でをしました。今で言えば初詣のようなものかもしれません。イスラエルの慣習で定められている。過越祭とは、神がエジプトで奴隷であったイスラエル人を救い出したことを覚える祭りです。毎年4月前後
この過越祭には、外国にいるユダヤ人までもがエルサレムにやって来ます。そして約1週間続く過越祭が終わり帰って行った。
しかし少年イエスは、帰らずに一人エルサレムに残っていました。途中で息子イエスを見失ったことに気づいた両親は、必死で探します。そして来た道を戻りエルサレム神殿で少年イエスを見つけた。
これは主イエスが神と人とを結びなおす役目をすることを意味します。神を求めるとは、主イエスを求めていくことです。そしてイエスは神と人との関係を元に結びなおすために来られたのです。
この結び目は、神を中心として、生活が回り始めます。自己中心から神中心に、生活が整えられて行くのです。
本日の聖書 マタイによる福音書3章13〜15節
「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼からバプテスマを受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに、あなたがわたしのところに来られたのですか。』しかし、イエスはお答えになった。『今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。」
宣教題「赦された者」 牧師 新保雅雄
キリスト教会には、洗礼(バプテスマ)という聖礼典があります。
キリスト教では、新しい生命の出発となる重要な儀式です。
その洗礼の起源ですが、普通に考えれば、主イエスが最初に弟子に洗礼を授けたのが始まり、といったことを想像しますが、そうではありません。その逆に、主イエス自身が洗礼を受けたという出来事が、伝道の開始に先立ってあったと福音書は記しています。
ヨルダン川で洗礼を施した洗礼者ヨハネ自身が、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたがわたしのところへ来られたのですか」と主イエスに疑問的に聞きなおしています。
パウロが主イエスのことを「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」と書いています。主イエスは罪と無縁なのです。主イエス自身に罪がないからこそ、わたしたちの罪をかわりに贖うことができたのです。
ではなぜ主イエスは洗礼を受けることを望んだのでしょうか?
主イエスは、悔い改めを必要として、うなだれているわたしたち罪人の列の中に入ってきてくださり、先頭に立って、主みずから洗礼を受けられたのです。天の高いところから迫ったのではありません。自分の罪深さに悩み苦しむ、わたしたちのもとに来られ、罪の身代わりとなられたのです。