本日の聖書 ルカによる福音書16章26節
「わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。」
宣教題 「世の壁、天の壁」 牧師 新保雅雄
高価な服を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らす金持ちがいました。毎日、宴会が行われていた。その家の門の前にラザロという、できものだらけの物乞いが横たわっていました。彼は、あまりの空腹から、宴会の残り物でもいいから腹を満たしたいと思っていた。
しかし金持ち達は、誰一人ラザロに食べ物をくれる人はいません。ラザロは、弱り切って犬ができものをなめても追い払えません。金持ちとラザロとの間には、超えることの出来ない貧富の差という壁があり、門の中と外では、全くちがう世界がありました。
世においてどんなに貧富の差が大きくとも死は平等に訪れます。しばらくしてラザロと金持ちに死が訪れました。互いに死から目覚めると、ラザロは天の国で宴席にいるアブラハムのそばに連れて行かれました。この世の地獄の様な世界から一転して、天の国に入ることが出来、信仰の父アブラハムと宴席にいたのです。
一方、金持ちは、ラザロとは対照的に、炎の中で熱さと苦しみのあまり目を覚ました。苦しさの中で天を見上げると、はるか遠く楽し気にアブラハムと宴会をしているラザロが見えました。
彼は苦しさの中で言います「ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください」
アブラハムは言います「わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって越えて来ることができない。」
金持ちは、有り余る自分の財産の、ほんの一部を分け与えることで助かるラザロを助けませんでした。世に壁があり天にも壁があるのです。この壁は、あなたの自己中心な心で築かれるのです。
本日の聖書 ルカ13:10〜17
「安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。
イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。」
宣教題 「束縛からの解放」 牧師 新保雅雄
ユダヤ教の安息日の教会。この教会には18年間腰が曲がる病気に苦しんでいる婦人がいました。主イエスは、この婦人を呼び寄せ「婦人よ、病気は治った」と言われ、その腰に手を置かれると、曲がった腰がまっすぐに伸びたのです。婦人は大喜びし神を讃美しました。18年間という長い苦しみから解放された瞬間です。
しかし、それを見ていた会堂長は、安息日に婦人を癒したことに腹を立て「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」と言ったのです。
会堂長にとっては、人が癒され、苦しみから解放されることよりも安息日が守られることの方が、重要だったのです。礼拝(安息日)を守る事や律法を守ることの方が、癒しより優先したのです。
18年間、病に苦しんだ婦人。教会に来れば、この苦しみから解放される。そう信じて礼拝に来ているのです。私たちも、この会堂長のように信仰が弱者を切り捨てていないでしょうか。
信仰が長くなると、弱者を切り捨てる。このようなクリスチャンを見受けることがあります。本来、信仰の先人は、弱者を引き上げることが問われています。神が導かれた者を、なぜ同じ罪びとが裁けるのでしょうか。裁くのは神です。
今日の教会で覚えることは、主イエスが十字架で死んで三日目に復活された、このことによって、私たちは、罪の鎖から解放され、赦され、救われているのです。罪の束縛から解放するために、十字架の死と復活があるのです。
本日の聖書 ガラテヤの信徒への手紙5章22節
「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」
宣教題 「ペンテコステの愛」 牧師 新保雅雄
ペンテコステ。過ぎ越しの祭りから数えて50日目、主イエスの十字架の死から復活して50日目、天から聖霊が降る。その時弟子たちに不思議なことが起こる。外国の国々の言葉を語りだす。
それまで主イエスなどは知らない、ユダヤ当局から恐れ隠れていた弟子たちが、主イエスの証人となって復活の証言を始めたのである。これがペンテコステに起こった出来事です。(使徒2章)
聖霊の働きの一つには、イエス・キリストの証人として復活の証言者になる事が出来るということがある。証人になる為には、神とは何かを知らなければなれない。彼らが自身の力で神を知ったのではなく、「聖霊によって神を知る」のです。
そしてここに集まって聞いていた人達は、自分の国の言葉で福音を聞いたのです。つまり神とは何かを、その人自身に理解できる言葉で語らせるということが、聖霊のもう一つの働きです。
何かわけの分からない不思議なことを起こすことが聖霊の働きではなく、相手に分かる言葉で語る。これこそが聖霊の働きです。
そして聖霊によって神を語る目的は、「霊の結ぶ実は愛である」。と言われています。神を語ることは、愛の種まきである。神の目的なのです。神がいつも私たちと共にいますようにとは、聖霊がいつも私たちを後押ししてくださり、愛の種まきを共に働かれているということである。
聖霊が働きかけてくださるそのままに私たちも神を信じ、神が語らせるそのままに神を語り、そして何よりも「神が私たちを愛されたように、私たちも愛するように」なりたいと願う。
本日の聖書 ルカによる福音書14章24節
「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。」
宣教題 「あなたは招かれている」 牧師 新保雅雄
ある主人が宴会を開こうとしました。そして宴会の日になりました。主人は、招いておいた人々の所へ僕を遣わして「用意が出来ましたので、おいでください」と知らせに行かせました。
主人は、招待した人々の到着を楽しみに待っていました。しかし、招待した人達は、全員断ってきたのです。主人は怒って僕に命じました。「急いで町の広場や路地に出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を連れて来なさい。」
さらに、「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家を一杯にしてくれ」と命じたのでした。誰でも良いから無理にでも連れて来いと主人は命じたのです。
この喩えは、神の国に入れる人は誰かということです。神の国に入れる人は、神の招きを断らない人たち、用事や都合があったとしても、神の招きに応じる人たちなのです。
更に神は、神の国へ誰でも招いておられることが解ります。もし、神の国に入ることが出来ない人がいるならば、その人は、神から招かれなかったからではなく。せっかく神に招かれているのに、様々な理由を付けて、招きに応じようとしなかった人なのです。
では私たちは、どうでしょうか。神の招きに素直に応じているでしょうか。神は、私たちを神の国へと招くために、主イエスを、神の招待状を携えて、知らせに来てくださったのです。
主イエスを通して語られる神の招きの言葉を、私たちは、どう受け止めているでしょうか。今日、この礼拝の席に座っていることは、神の招きに応じていることの証なのです。
本日の聖書 ルカによる福音書14章5節
「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」
宣教題 「愛と宗教」 牧師 新保雅雄
主イエスは、安息日にファリサイ派の議員に、食事の招待を受けた。大勢の議員達に混じって水腫を患っている人がいました。
この病人が、ここに招かれたのは、安息日に主イエスが、この人に対して癒しを行うかどうか、その様子をうかがう為だった。
主イエスは、その邪悪な心を見ぬいて彼らに言いました。
「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」彼らは黙って一言も答えない。主イエスは、水腫を患っている人を癒され、その議員の家から送り出したのです。
そうしてあらためて主イエスは聞きました。 5節「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」彼らは何も答えることが出来ない。なぜなら認めざるを得なかったからである
誰でも愛する我が子を助けようとします。それが律法違反だとして裁かれたとしても、助けようとするでしょう。彼達は、他人には、律法厳守、信仰第一と教えているが、自分の愛する子供だったらどうするでしょうか。
私達も信仰の弱い人に「クリスチャンのくせに」そう思うことはないだろうか。このことが、どんなに弱い人を縛っているか。相手が抱え込んでいる痛みも知らずに、ただ頭ごなしに信仰を押し付けることは、傷口に塩をすり込むようなものだ。
自分では、どうしょうも出来ないから教会にすがる。その人を主イエスの愛から引き離す結果になっていないだろうか。 主イエスが招かれたのは、律法を守れる人、罪のない人、立派なクリスチャンではない。神の憐みにすがるしかない人たちです。