本日の聖書 ルカによる福音書17章20〜21節
ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。
「神の国は、見える形では来ない。
『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
宣教題「神の国はあなたの中に」 牧師 新保雅雄
ファリサイ派の人々が、主イエスに対して「神の国はいつ来るのか」と尋ねました。主イエスは「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と答えられました。
心の目を開いて、よく見るならば神の国は、もう既に、あなたのそばに来ているのだ、と言われている。主イエスの福音を聞いて、主イエスの奇跡の業を見る時に、神の国は、ここにあると確信できるのです。つまり、あなたの思いの中に神の国を確信できるのです。
問われているのは、主イエスを通して現わされる神の国を、どのように、あなた自身が受け止め、感じ取るか、ということが大切なのです。主イエスの福音を二人の人が聞いても、一人は、「神の国が来ている」と受け止め、もう一人は残念ながら「神の国など信じられない」と思うのです。
この世を生きる限り、誰にも艱難辛苦が訪れます。この艱難が、苦しいだけで何の意味も無いとしたら、艱難に耐えることの意味とは何でしょうか。それよりずるがしこく生きる方が得に思えてしまう。熱く過酷な砂漠の先に水をたたえた泉湧く緑のオアシスがあると確信するなら、歩くことにも意味があり耐えられるでしょう。
主イエスと共に歩むならば、今の苦しみも意味の無いものではありません。信じて歩むなら苦しみの先に神の国の喜びがあります。今のあなたの苦しみは、大きな喜びが待っている産みの苦しみなのです。その時、艱難は苦しみではなく試練に変わるでしょう。
本日の聖書 ルカによる福音書17章11〜14節
イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、らい病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスはらい病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
宣教題「御言葉に従う」 牧師 新保雅雄
主イエスと弟子達がエルサレムへ向かう途中の村でのことです。重い皮膚病を患っている十人の人たちが、遠くの方に立ち止まったまま、主イエス達を出迎えました。彼らは、重い皮膚病、当時は伝染する不治の病として、村人に近づくことが出来ない。当然、主イエスのそばに近付くことも出来なかったのです。
私たちはどうでしょうか。彼らと同じように、主イエスとの距離を感じることはないでしょうか。癒して欲しいと願いながらも、そこに行くには自分が相応しくない、こんな私が教会に行ってもいいのだろうか? 私のようなものを神様は、歓迎するだろうか?
初めて教会へ来たころを思いだします、私たちもこの十人と同じ様に、主イエスとの間に大きな距離があったのではないでしょうか。
十人は、声を張り上げて、主イエスに憐れみを願いました。「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください。」すると、主イエスは「祭司たちのところへ行って、体を見せなさい」と言われました。そして主イエスの言う通りに祭司の所へ向かいました
すると祭司の所へ行く途中、十人全員が癒されたのです。主イエスは「皮膚病が癒されよ」と言ったのではなく、「手を触れ癒された」のでもない、ただ「祭司たちのところへ行って、体を見せなさい」と、それも遠くの方から声をかけられただけなのです。
彼らは、主イエスのお言葉に従った。そのとき重い病、不治の病が癒された。主イエスのお言葉に従った時、奇跡がおきた。
本日の聖書 ルカによる福音書17章1〜2節
イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。」
宣教題「つまづきの石」 牧師 新保雅雄
「つまづきの石」とは、信仰人生という道を歩んでいる人が、つまずいて転んでしまう石のことです。教会も肉を持つ人間の集まりである以上、必ずしも理想的なことばかりが起こる訳ではありません。信仰を同じくすると思っていた兄弟姉妹の言葉や行いによって、傷付けられたり、信仰を揺さぶられ迷う事が、しばしば起こります。主イエスは「つまずきは避けられない」と言われる。
主イエスは、つまずきを起こさせる兄弟姉妹を戒めているのですが、その中でも特に、「小さい者の一人」をつまずかせることを戒めています。ここで言う小さい者とは、具体的には、信仰的に弱い人、経済的に貧しい人、肉体的に病気の人、困難や試練、悩みを抱えている人、あるいは、自分を守る力のない子どもたちのことです。
強い人を中心にして教会があるとしたら、教会はどうでしょうか。すがる様な思いで教会に来た人は、弱さゆえに居場所を見付けることが出来ず、迷うことになるのです。教会は、小さい者、弱い者、自分を守れない者こそが、もっとも大切にされる場所なのです。
だからこそ主イエスは、強い兄弟の言行で、小さな者をつまずかせる人々に向かって「そのような者は、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましだ」と厳しく言われます。
時に信仰的に熱心な人の言動が、弱い人を傷つけることがあります。私たちは、新しい兄弟姉妹にとって「つまずきの石」になっていないでしょうか。求道者の方のよき兄姉、お手本であるでしょうか。弟妹を導いているでしょうか。心に留めたいお言葉です。
本日の聖書 ルカによる福音書16章26節
「わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。」
宣教題「天と地を分ける壁」 牧師 新保雅雄
高価な服を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らす金持ちがいました。毎日、宴会が行われていた。その家の門の前にラザロというできものだらけの物乞いが、力なく横たわっていました。彼は、あまりの空腹から、宴会の残り物でもいいから腹を満たしたいと思ってた。
しかし金持ち達は、誰一人ラザロに残飯でさえもくれる人はいません。ラザロは、弱り切って犬ができものをなめても追い払えません。金持ちとラザロとの間には、超えることの出来ない貧富の差という壁があります。門の中と外では、全くちがう世界がありました。
世においてどんなに貧富の差が大きくとも死だけは、平等に訪れます。しばらくしてラザロと金持ちに死が訪れました。死から目覚めると、ラザロは天の国の宴席でアブラハムのそばにいます。この世の地獄の様な世界から一転して、天の国に入ることが出来、信仰の父アブラハムと宴席についていたのです。楽しげな声が聞こえます
一方、金持ちは、ラザロとは対照的に、炎の中で熱さと苦しみのあまり目を覚ましました。苦しさの中で天を見上げると、はるか遠くにアブラハムと楽しげに宴会をしているラザロが見えました。
彼は苦しさの中で言います「ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください」しかしアブラハムは言います「わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって越えて来ることができない。」
金持ちは、有り余る自分の財産の、ほんの一部を分け与えることで助かるラザロを助けませんでした。世に壁があるように天にも壁があるのです。この壁は、あなたの自己中心な心で築かれています。
本日の聖書 ルカによる福音書16章15〜17節
そこで、イエスは言われた。
「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。」
宣教題「何を誇るのか」 牧師 新保雅雄
ファリサイ派の人々に対して、主イエスは語られました「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。」(15節)
これは、人目に付く所でだけ、自分の信仰、行い、正しさをこれ見よがしに見せびらかして誇ろうとするファリサイ派の人々に、悔い改めを投げかける言葉です。私たちも教会の内の顔と外での顔の違いにも通じます。クリスチャンの顔、よそ行きの言葉。
続けて「律法と預言者は、ヨハネの時までである」と主イエスは語られました。ここで言われる「律法と預言者」というのは、旧約聖書のことを指しています。バプテスマのヨハネが悔い改めのバプテスマを授けて以来、新しい時代が到来し、神の国の福音が告げ知らされました。それは、「神の国は近付いた」という喜ばしい知らせ福音であり、人々に求められるのは「悔い改め」です。
悔い改めとは、人生の方向転換です。今までの人生を止めて、神の方へと人生の方向を転換することです。ところが、実際には、正反対のことが起きました。それは、「だれもが力ずくでそこに(神の国)入ろうとしている」ということです。これは、自分の信仰によって、自分の良い行いによって、自分の力によって、神の国への扉を強引に開けようとする、律法学者などの人々に向けた言葉です。
自分の力では誰一人、神の国へ入ることは出来ません。神の国への入り口は、己を低くして、主イエスの十字架こそが、神の国へ通じる道であると認め謙虚に生きる者にこそ、開かれるのです。