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投稿者 : church 投稿日時: 2021-10-03 06:13:57 (494 ヒット)

  本日の聖書 マタイによる福音書721


「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」 


宣教題「主の御心、愛に生きる」  牧師 新保雅雄


主イエスを救い主として信じ教えを守ったとしても、必ずしも全員が天の国に入ることが出来るのでは無い、「神の御心を行う者だけが天の国に入るのだ。」と主イエスは言われます。


 22節)「かの日」すなわち終わりの日、裁きの時、世の人生が終わるとき。主イエスによって一人一人が、天の国に入ることが出来るかどうか、最終的に選別されます。


 この時、大勢のクリスチャンがが、主イエスに向かって「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか。」


こうして、彼らは、自分たちの信仰生活における実績を持ち出して、天の国へ入る権利を訴えます。


しかし主イエスは、「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」と言われます。


何故、彼らは、これほどまでに厳しく言われなければ、ならないのでしょうか? それは、彼らが天の父の「御心を行わなかった」からです。いくら実績を積み上げても、神の御心とは、異なることをしていたのです。世の自分の思いに従って行動していたのです。


残念ながら、クリスチャンとはこうあるべきだ。という、愛よりも出来るか出来ないかを問うクリスチャンが実に多い。


では天の父の御心とは何でしょうか?それは、「隣人への愛」です。


「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(712)これは、「自分自身のように隣人を愛しなさい」ということです。


投稿者 : church 投稿日時: 2021-04-04 07:25:39 (582 ヒット)

 本日の聖書 マタイによる福音書285,6


天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけれたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」


宣教題「おはよう!マリア」   牧師 新保雅雄


週の初めの日(日曜日)の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアは、悲しみの中、主イエスが葬られた墓を見に行きました。


主イエスの墓は、この二人にとって十字架で死んでしまった、主イエスとの思い出に、悲しみ、寂しさ、無念さを誘うものでした。


ところが、墓にいた天使は、「あの方は、ここにはおられない」、主イエスの納められていた墓は、マリアたちにとって、そこから新たな命へ続く、折り返し地点へと変えられたのです。この場所が悲しみと絶望に満ちた、命の行き止まりの最終地点では無いことを告げたのです。


このマリアたちの経験は、この世に生きる私たちにとって、実に大きな希望を与えてくれます。主イエスが、十字架の死から復活されたことは、この世の命に行き止まりがあり、命が終わる。行き止まりがあるものではなく、天の御国への通過点に過ぎないことを、明らかにしているからです。


もはや、死は、私たちの人生の最終地点ではありません。通過する地点なのです。勿論、私たちは、まずは、そこへ向けて、この世の人生を進めます。でも、そこがゴールではなく、天の御国への通過点であり、それは、主イエスの十字架によって開かれたのです。


新たな歩みへと向かい始めた時に、二人の歩みの先に、立っておられる方が見えました。何と主イエスが、二人のマリアの行く手に、彼女を導くように立っておられたのです。


そして主イエスは、マリアたちに「おはよう」と声を掛けられました。 この朝の挨拶は、復活の命の始まりを告げておられるのです。


今朝、主イエスは、あなたに「おはよう」と声を掛けられています。


投稿者 : church 投稿日時: 2021-03-28 07:07:17 (564 ヒット)

 本日の聖書  ルカによる福音書234243


「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園(パラダイス」にいる。」と言われた。


宣教題「あなたとパラダイスにいる」   牧師 新保雅雄


主イエスが処刑場へと引かれていきます。他に二人の犯罪人も処刑場へ引かれて行きます。「ゴルゴダ」と呼ばれている丘に着くと、主イエスの左右に、この二人も十字架に付けられました。


その時、主イエスは言われました「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」驚くことに主イエスは、ご自分を十字架に付けた人達を赦して欲しいと祈るのです。


ここに主イエスの深い愛があります。しかし、このことを理解できない人がいます。主イエスと共に十字架に付けられた犯罪人の一人が言います。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」そして十字架に付けた議員や兵士たちも同じこと言います。


しかし十字架に付けられた、もう一人の犯罪人は、彼に言いました「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」


自分自身の罪を告白し悔い改め、主イエスが世の罪の身代わりになったと祈るとき、十字架による救いが与えられるのです。


罪を悔い改めた犯罪人は、さらに言います「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」


すると、主イエスは、言われる「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園(パラダイス)にいる」


自分の罪を認めて主イエスに告白するなら、誰にでも主イエスの十字架の救いは与えられます。「あなたとパラダイスにいる」


投稿者 : church 投稿日時: 2021-01-10 07:37:18 (603 ヒット)

 本日の聖書 マタイによる福音書1248〜50


「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」


宣教題「主イエスの家族」   牧師 新保雅雄


弟子達は、主イエスの母マリアと兄弟たちが、会いに来ていると主イエスに告げました。すると主イエスは、「わたしの母とは誰か。わたしの兄弟とは誰か」と言われ、弟子たちのほうを指して言われました。「見なさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」


 最近の新興宗教の中にもある対応ですが、主イエスは、なぜこのようなことを言われたのでしょうか? たいへん冷たい言葉に聞こえてしまいます。これは主イエスの家族、肉親に向けて語られた言葉ではなく、弟子たちに向かって語られた言葉なのです。そこから見ていくと、この言葉の中にある意味が分かってきます。


 ここにいる弟子たちは、主イエスにとって肉親と同じく大切であり、かけがえのない存在なのだ、ということになるのです。


血のつながりも何もない、それぞれ異なる人生を歩み、お互いなんのつながりもなかった人々が、主イエスのもとに一つに集められている。この弟子たちを指して、主イエスは、あなたがたは「わたしの母、わたしの兄弟」わたしの家族だというのです。


 「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母なのである」それでは父の御心を行う人とは、何か立派な行いをした人なのでしょうか? 


 主イエスの弟子たちは、社会的に決して立派な人たちでもなかったし、優秀な学歴や高明な人でもなかった。ただ主イエスに従い、主イエスの語る御国の話に耳を傾け、それを信じる。


 彼らの行いとは、ただそれだけのことなのです。それが父なる神様の御心なのです。信仰は聞くことから始まる。そして主イエスとの家族の始まりなのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2020-12-27 06:36:22 (604 ヒット)

本日の聖書 ローマの信徒への手紙5章8節

「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」

宣教題「こんなにも愛されている」   牧師 新保雅雄

人は、生まれて幼いとき、親のもとにあるとき、人生は親の考えに基づく。何事にも疑問をもたず、親を100%信頼している。

しかし、ある時から「俺はこうだ!」自己を主張したくなる。自我の目覚めである。親の言葉に生きることから、自分の言葉によって生きようとする。そして親への反抗、社会への反抗となっていく。自分の世界にあこがれ、自由を求めて社会へ飛び出す。

「知恵の実」を人間が食べたときである。自己を出したくなる。ダメと言われるものは、非常に魅力的に見える。

そして少年から青年になり大人になっていく。社会の厳しさを知る。そんな時、親の愛を思い出す。病気で床に伏せた時、一晩中、寝ないでタオルを変えてくれた。そのときは知らなかった。しかし、いま気がつく、愛されていたのである。単車で事故を起こし、全身ギブスで固定されチューブがささる時、変われるものなら変わってやりたいと、泣いてくれた人がいた。でもそのときは気がつかなかった。学校に行かす為に、朝から晩まで手を真っ赤にしてパートで皿洗いをしていてくれた。でも私は知らずに遊びボケていた。大人になった今、その事がわかり涙する。私は、愛されていたのである。

何不自由なく愛されていた時、愛を知ることが出来なかった。それどころか、「うるせえな!」反抗していたのである。自由な世界を求め神から離れ旅をするとき、そこにあるものは、孤独、挫折、騙し、裏切り、自己中心的な冷酷社会である。その中に同化してしまう自分を悲しむ、こんなはずじゃなかった。これが自由か?

そしてたどり着いたのは、キリストの十字架であった。神に敵対していた時でさえ、命をがけで愛してくれていた。神の愛を知るとき、「私は一人で生きて来たのではない。多くの人達に支えられ愛され生かされている。」今このことを知る。ただ感謝、ああ感謝・・・


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