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投稿者 : church 投稿日時: 2018-05-27 20:40:23 (711 ヒット)

 本日の聖書  ヨハネによる福音書15章5節

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。

人がわたしにつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。

わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」

宣教題「生きた木につながる」 牧師 新保雅雄

本来人間とは、私たちが想像する以上に、すばらしい能力と可能性に満ちた、栄光の冠をかぶるすばらしい存在であると伝えています。(詩篇8:6〜9)

しかしまた神から離れた人間は、弱く醜く、知恵を誇り偶像を追い求める存在であるとも伝えています。(ローマ1:21〜23)

つまり人間は神の作り上げた最高の尊い作品であるにもかかわらず、愛に満ちた神の秩序を破壊し堕落したものである、というのが事実なんです。

主イエスは、人間の中にある二面性をブドウの木と枝の喩えで教えられました。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:5)。

もし1本の枝が木につながっていれば、その枝はただの木の棒と違って生きている証しとしての芽をつけ実を結びます。さらにその実は、さらなる命を宿し次の命につなげていきます。本来枝は大変大きな能力を持っている

しかし木につながっていない枝(棒)だけでは、せっかく大きな能力を持っていても、いづれ腐って土になるだけなんです。命の実りを付けることは、不可能なことなんです。結局、生きていけない。

この枝と同様に私たちにも、本来大きな能力が与えられています。それを発揮できるのは、命の源である神と信仰で結ばれることで初めて可能になるんです。枝は自分の力だけでは、必ずや決定的な死という限界にぶつかるんです。神につながっていない人間は、結局腐り堕落して滅びという土くれに向かって行かざるを得ません。


投稿者 : church 投稿日時: 2018-05-20 06:59:15 (756 ヒット)

 


本日の聖書  ヨハネによる福音書7章37〜39節

「イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである」

宣教題「渇いている者私のもとに来なさい」 牧師 新保雅雄

ヨハネによる福音書は、聖霊について、それを象徴的に「水」にたとえている。水は生き物にとって必要不可欠なものです。水はすべての細胞の中にあり、生命の機能を維持するために必要です。

どんな生き物であろうと水が断たれたとき、渇きを覚え、水分の補給を必要とします。このような体の渇きは私たちも経験したことのあるものですが、同時に、この渇きは、人間の心、人格、魂においてもしばしば起こると聖書は語られます。

私たちの霊的な渇きは、何を注ぐことで癒されるのか。それはイエス・キリストにしか満たすことのできないものです。しかし、これを満たそうと人間は、様々なものに、その解決を求めます。  

このような霊的な渇きを癒すために、私たちは偶像を拝み、また自分の欲求のままに振舞います。そして失敗し、前以上に深い渇きに陥ります。そしてまた罪を重ねていくことがあります。

それは悲しいことでありますが世の人々は、その渇きを癒すためにありとあらゆる他の代用物を求めることで、渇きを癒そうと必死なんです。知らないということは悲しいことです。

今朝、キリストにある生涯こそが唯一つの満ち足りた生涯であることを知り、主こそ私たちの真の食べ物、飲み物であり、日々私たちに命を与え、力を与えて下さることに感謝したい。


投稿者 : church 投稿日時: 2018-05-13 05:24:04 (742 ヒット)

 本日の聖書  ヨハネによる福音書20章31節

「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」

宣教題「あなたの心をご存知です」  牧師 新保雅雄

弟子のトマスは、主イエスの復活を最後まで信じる事はできなかった。実証主義者と言われ不信仰的に見られています。

「そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」(1:25〜29)

トマスの心をご存知である主イエスは、トマスに語られました。この御言葉の主題は「見ないで信じる人は幸いである」ということです。この御言葉は、トマスに語られていると同時に、わたし達に向かって語られているメッセージです。トマスの思いはわたし達の思いに最も近いからです。

復活の主イエスは、当時の何人かの弟子達に現れました。しかし、現在まで多くのクリスチャンの前には現れていません。でもこんなにもクリスチャンが多くいるのです。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」

あなたに必要なメッセージは御言葉の中にあります。トマスの疑問に答えられたように、あなたへも答えを用意しておられます。


投稿者 : church 投稿日時: 2018-05-13 05:22:32 (745 ヒット)

 本日の聖書  ヨハネによる福音書2章19〜21節

「イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。』それでユダヤ人たちは、『この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか。』と言った。イエスの言われる神殿とは、ご自分の体のことだったのである。」

宣教題「神の宿る宮」   牧師 新保雅雄

ユダヤ人にとって最も大切な過越しの祭りが近づいてきた。地方からも外国からも沢山の人々が、ここエルサレムの神殿へと集まる。

主イエスもペテロ達弟子を引き連れエルサレムの神殿に上られた。そこで見たものは、神に献げる献げ物を売る商人、神殿に献げるお金を両替する両替商の群れであった。そしてそれを買い求め満足する人々、それを受け取り祝福があると説教する祭司達。

その様子をしばらく見ていた主イエスは、商人達の屋台をひっくり返し、お金を撒き散らし、売られている動物を逃がした。

そして「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」と叫ばれた。

物やお金を献げることで満足する人々。またそれを公然と当たり前に教える祭司達。健康を手に入れるために、罪の赦しを得るために、永遠の命の保証を確保する為に、そして今年こそは経済の向上を願う。そのために遠くから来て物、金を惜しげもなく献げる。満足を買う者。満足を売る者。でごった返している。

この情景は、私達の周りにも腐るほどある宗教と、それに群がる人々の関係に少しも変わらない。神の家が世俗的な宗教になり下がってしまっている。こんなに献げた。じゃ神は何をしてくれる?  

まさしく神殿の崩壊である。主イエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」と言われました。ユダヤ人たちは「この神殿を建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか。」彼らは、目の前にある見える建物としての神殿を思い描いている。しかし主イエスは、心の中にある神の宿る宮としての神殿を言われている。三日で建て直すと言われた神殿とは、十字架による死からの三日目の復活のキリストのことである。


投稿者 : church 投稿日時: 2018-04-22 05:59:57 (746 ヒット)

 本日の聖書  ルカによる福音書18章15〜17節

「イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れてきた。弟子達は、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。『子供達をわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』」

宣教題「子供の様に」 牧師 新保雅雄

神の国とはなんでしょうか? 死んだ後に行く世界だけではありません。神の国とは「神が治める国、神と共にいる国」ということです。神を信じる信仰の人生がすでに神の国に入っていると言う事なんです。

あそこにあるここにあるというものではなく、神を信じたときが神の国なのです。

ここでは、つまりイエス様は「子供のようでなければ、神様を信じることはできない」と言われておられるのです。

では「子供のように」とはどういうことでしょうか?

純真、素直、無垢、このように思われがちですが、ホントにそうでしょうか? 公園で子供同士のおもちゃの取り合いがよくあります。親がヒヤヒヤしながら「人のものは取っちゃダメ」と言っているのをよく聞きます。

お菓子が食べたくなると食事の時間まで我慢できなくて食べてしまいます。遊びたくなると学校の宿題をほっぽりだして一日中遊びます。おもちゃ売り場を通りかかると今日はお金がないからダメと言っても大きな声でぐずります。

イエス様は、子供のように純真で聞き分けが合って素直であると言われているのではありません。この子供のように欲しいものには、何を差し置いてでも貪欲に求めていく子供を言われているのです。

大人になると世間体や社会的なこと人の目、現実的なことから神を見ようとします。

「イエス様が好き、だから着いて行く。」子供のようでありたい。


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