「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」
宣教題「裏切りと救い」 牧師 新保雅雄
「最後の晩餐」の席で主イエスは言われました。「あなたがたのうちの一人で、一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」この時12弟子の誰もが「自分は裏切りはしない」とは思えませんでした。「もしかして自分が裏切るかもしれない」と心の中で不安がよぎる。それゆえ「まさかわたしのことでは」と、代わる代わる主イエスに尋ねたのです。
楽しい晩餐の席は、一転して緊迫した雰囲気になりました。続けて主イエスは言います。「わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ」裏切り者は誰なのか。ここで名前は出ません。主イエスを裏切る者の名前が伏せられることで、どの弟子にも主イエスを裏切る心があるということが、あらわになっていきます。
裏切りのユダ以外の弟子たちも、主イエスが捕らえられて行く中で逃げました。この後の22節でペトロは、主イエスのことを3回知らないと裏切りました。同じく弟子達も関係を否定するのです。
主イエスから「生まれなかった方が、その者のためによかった」と言われるのは、決してユダだけではありません。他の弟子たち全員、また私たちも同じ言葉を聞くべき者なのです。
「生まれなかった方がよかった」最悪な言葉です。しかし、この主イエスの厳しい言葉に、自分を置く時にこそ、救いがもたらされるのです。全人類が主イエスを裏切る。だから全人類への救いがあるのです。いざとなったら逃げ出してしまう。それが私たちの本当の姿なのです。はっきりと心の中がえぐり出されるのです。
自分の罪の大さを知るとき、主イエスの十字架が、自分にとって価値のあるもの、救いという大きな恵みにつながります。
皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。イエスが船に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。
宣教題「恐れるな私がいる」 牧師 新保雅雄
主イエスは、弟子たちだけを舟に乗せ、ガリラヤ湖の向こう岸ベトサイダへ向かわせました。弟子たちを乗せた舟は、湖の中ほどまで進んでいきました。穏やかで順調な進みでした。ところが急に逆風が吹いて来ました。舟は風と波を受け、立ち往生してしまったのです。舟に乗り込んでいた弟子たちは、ペトロを初めとして、以前は漁師をしていた者が何人もいましたが、そんな彼らでも激しい逆風と荒波に打ち勝つことが出来なかったのです。
弟子たちは、一晩中、逆風に悩まされ、一向に進むことが出来ずにいたのです。そしてとうとう夜が明ける頃になりました。その時、主イエスは、湖の上を歩いて、弟子たちの所へと向かわれたのです
ところが弟子たちは、湖の上を歩いて来るのが、主イエスだとは分かりませんでした。それより幽霊だと思い、おびえていたのです。
その時、主イエスは、弟子たちに向かって、こう言われました。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
私たちの人生も、弟子たちの舟旅のように、度々、逆風が吹くことがあります。途中まで順調に見えた人生が、まるで逆風が吹き付けてきたように、急に進まなくなり、いくら漕いでも、前に進まなくなることがあります。そんな時、私たちは、進むべき方向や、方法が間違っているのではないかと思い戸惑います。そして、「こんな筈では無かった」と焦り、疲れ、取り乱します。そしてどうしょうもなく人生半ばで、なげだし諦めてしまう。
そんな時、祈って下さい。主イエスは言われます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」世の中の声に振り回され神の声が聞こえ無かったのです。そんなあなたに主イエスは声をかけておられます。すべてを主イエスに委ねてみてはどうでしょうか。
本日の聖書 ルカによる福音書2:30〜31
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」
宣教題「あなたの救いを見た」 牧師 新保雅雄
主イエスが、ベツレヘムでお生まれになってから、40日ほど経った時のことです。クリスマスから数えれば、2月上旬ごろです。
律法によると、男の子を産んだ時には、40日間は、清めの期間とされ、神殿に詣でることが、禁じられていました。 この期間が過ぎたので、早速、マリアとヨセフは、幼子である主イエスを連れて、エルサレム神殿に行きました。
こうして、マリアたちが、神殿の境内に入っていくと、ちょうど、シメオンという人が、神殿の境内に入って来ました。このシメオンは、「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊がとどまっていた」と言われている人です。
このシメオンは、かつて、神が遣わす救い主に会うまでは、決して死なないというお告げを受けていました。 このお告げをシメオンが聞いてから、どれほどの歳月が経ったことでしょう。毎日毎日、この日を待ち続けたことでしょう。そして、遂に、この日、神の導き、引き合わせによって、エルサレム神殿の境内で、シメオンは、待ち望んでいた救い主イエスに、出会ったのです。
この瞬間のために、シメオンは人生を歩んで来ました。実に、救い主と会うことこそ、シメオンにとって、人生の目的となっていたのです。
シメオンだけでなく、本当は、全ての人にとって、救い主と出会うことは、人生の究極の目的となるのでは、ないでしょうか。そして、今や目的を果たしたシメオンは、心から、神を賛美して歌い出しました。 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」人は主と出会うときに、すべての恐れ、疑いから解放される。救いの完成が近いことに、喜びを見出す。死への恐れが消え去るときである。
本日の聖書 マタイによる福音書11:28〜30
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
宣教題「疲れた者、休ませてあげよう」 牧師 新保雅雄
主イエスは言われました。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」現代社会、多くの人が疲れを覚え、重荷を負って苦しんでいるのではないでしょうか。
例えば生活への不安、職場や学校での人間関係の難しさ、家庭内の問題、夫婦、嫁姑、親子関係の悩み、将来への不安もあります。健康の不安、そして死への不安。多くの重荷を負い、心が疲れます。
では主イエスは、どのようにして私たちを休ませ、重荷を取り除いてくださるのでしょうか? 28節「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」。そして29節「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」
「軛」というのは、牛の首にあてる木です。牛の首に軛を付けて荷物を引かせたり、土を耕したりさせました。つまり、牛を農作業で働かせるための自由を奪う道具です。
私たちは「この世の軛」を首に掛けられて自由を奪われているから、苦しんだり、悩んだり、心が疲れたり、重荷を負ったりするのです。「休む」とは、そういうこの世の重荷、この世のくびき、自分にかけられたくびきが、なくなることが、休まることではないか。そう思うのです。
ところが、この世のくびきを首にかける代わりに、主イエスのくびきを首にかけなさいと言われるのです。軛がなくなるのではなく、新たに主イエスの軛をかける。とは何故なのでしょうか?
本日の聖書 コリントの信徒への手紙第一 6:19〜20
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから自分の体で神の栄光を現しなさい。」
宣教題「あなたは神が宿る神殿」 牧師 新保雅雄
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」ここで、代価と言われているのは、主イエスが十字架で犠牲となってくださったことを現しています。実に、主イエスが十字架で犠牲となってくださったことは、私たちを罪から救い出し、神の赦しを得るために、神ご自身が支払ってくださった代価(神の愛)なのです。
私たちは、買い物をします。買い物の際に、代価として、それぞれに付いている値段のお金を支払います。わたし達が買い取られた代価の値段は、なんと御子の命ということなのです。つまり神は、わたし達を、それほどまでに愛されている事がわかります。
しかし私たちは、こんなにも愛されていると言うことを忘れてしまって、自分勝手に生きてしまいます。それは買い取られたということを忘れてしまうことです。神から離れてしまうことなのです。私たちが、自分勝手に生きるならば、そこには愛がありません。
ここでパウロは「わたしには、すべてのことが許されている」と2回も繰り返されています。おそらくコリント教会の中のクリスチャンでしょう。主イエスの十字架によって救われたこと、罪が赦されたことが、いつの間にか自分自身の信仰によると自負してしまう。
信仰生活が長いと、自分自身が正義である、愛ある人である、罪を犯さない善人である。私は優れたクリスチャンであると、勘違いしてしまい、傲慢になり自分を誇る。そして弱い求道者を見下してしまう。
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」私たちが素晴らしいのではなく、神が聖霊として宿るから、その器も光輝くのです。誇るべきは父なる神である。