本日の聖書 ルカによる福音書21章12〜13節
「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる」
宣教題「あなたの口と共にある」 牧師 新保雅雄
主イエスは、キリスト者への迫害が迫っていること、そして迫害に対する心構えを語られました。
現在の私たちには、迫害と言っても、なかなか分かりづらいことですが。今から72年前の戦時中、そして戦国時代の日本であれば、キリスト教信仰者への迫害や弾圧があり、逮捕されて獄中で死を迎えた方も沢山いました。しかし、現在の日本では、主イエスを信じることで当局へ逮捕されるといった迫害は、ありません。
しかし2千年前に十字架で殺された外国の人を神の子、救い主だと信じることは、周りから見れば不思議な目で見られることが多々あります。「神を信じるなんて弱い者のすること」「信じて何かよいことがあったのか」「おまえの言う愛って何だ」と興味本位の質問をされることが、あるかも知れません。また、聖書の事を話すとからかわれることもあります。
若い頃の友人は言います。「こいつこの間まで不良だったのに今牧師なんだって、ホントかね?」と皆の前で挑発されることがあります。茶かされるという迫害は、今でも度々経験することです。
こうした迫害を受けることは、出来れば避けたいものです。ところが主イエスは、「それはあなたがたにとって証しをする機会となる」(21:13)と言われます。この時こそ伝道の機会だと言うのです。
何を語ろうか心配しなくてもいい。「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授ける。」ただ主イエスを信じて、そのとおりに実践する事です。主は、神の働き手、御用をされるものを、決して捨ておかれはしません。
本日の聖書 ルカによる福音書20章22〜25節
「『ところでわたし達が皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。』イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。『デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。』彼らが『皇帝のものです』と言うと、イエスは言われた。『それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』」
宣教題「信仰と社会」 牧師 新保雅雄
本来、自分の悪い所を指摘してくれる人は、有り難い存在なのですが、悲しいことに、その大事な人を律法学者や祭司長たちは、素直に受け入れることはできませんでした。
そこで主イエスを何とか陥れ、ローマ皇帝に訴えようと考えたのです。そして彼らは、悪意に満ちた質問を投げ掛けたのでした。
「わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、
律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
当時のローマ皇帝は、半ば神格化されていましたので、ローマに税金を納めることは、ローマ皇帝を神として崇めることにつながるのです。ユダヤ人は快く思っていませんでした。
もし主イエス様が、ローマ皇帝に税金を納めることは律法に適っていないと公に答えれば、ローマへの反逆罪になるのです。
しかし主イエスは、デナリオン銀貨を取り上げ「そこには、誰の肖像と銘があるか」と問い返しました。彼らが、「皇帝のものです」と答えると、主イエスは、「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と答えられました。
信仰は、現実社会から逃避して自分勝手に生きるためのものではありません。むしろ、与えられた信仰による人生を、人や社会のために用いる時に、地の塩、世の光としての信仰の実りがあるのです。
信仰とは、あのオームのように現実社会から逃避するためのものではなく、愛をもって支えあう豊かな社会にする力になるのです。
本日の聖書 ルカによる福音書2章41〜49節
「さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れに中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者達の真ん中に座り、話を聞いたり質問をしたりしておられるのを見つけた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。『なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。』するとイエスは言われた。『どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。』」
宣教題「結びなおされる」 牧師 新保雅雄
主イエスが12歳になった時のことです。両親ヨセフとマリアは、少年イエスと共に、過越祭にエルサレム神殿詣でをしました。今で言えば初詣のようなものかもしれません。イスラエルの慣習で定められている。過越祭とは、神がエジプトで奴隷であったイスラエル人を救い出したことを覚える祭りです。毎年4月前後
この過越祭には、外国にいるユダヤ人までもがエルサレムにやって来ます。そして約1週間続く過越祭が終わり帰って行った。
しかし少年イエスは、帰らずに一人エルサレムに残っていました。途中で息子イエスを見失ったことに気づいた両親は、必死で探します。そして来た道を戻りエルサレム神殿で少年イエスを見つけた。
これは主イエスが神と人とを結びなおす役目をすることを意味します。神を求めるとは、主イエスを求めていくことです。そしてイエスは神と人との関係を元に結びなおすために来られたのです。
この結び目は、神を中心として、生活が回り始めます。自己中心から神中心に、生活が整えられて行くのです。
本日の聖書 マタイによる福音書3章13〜15節
「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼からバプテスマを受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに、あなたがわたしのところに来られたのですか。』しかし、イエスはお答えになった。『今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。」
宣教題「赦された者」 牧師 新保雅雄
キリスト教会には、洗礼(バプテスマ)という聖礼典があります。
キリスト教では、新しい生命の出発となる重要な儀式です。
その洗礼の起源ですが、普通に考えれば、主イエスが最初に弟子に洗礼を授けたのが始まり、といったことを想像しますが、そうではありません。その逆に、主イエス自身が洗礼を受けたという出来事が、伝道の開始に先立ってあったと福音書は記しています。
ヨルダン川で洗礼を施した洗礼者ヨハネ自身が、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたがわたしのところへ来られたのですか」と主イエスに疑問的に聞きなおしています。
パウロが主イエスのことを「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」と書いています。主イエスは罪と無縁なのです。主イエス自身に罪がないからこそ、わたしたちの罪をかわりに贖うことができたのです。
ではなぜ主イエスは洗礼を受けることを望んだのでしょうか?
主イエスは、悔い改めを必要として、うなだれているわたしたち罪人の列の中に入ってきてくださり、先頭に立って、主みずから洗礼を受けられたのです。天の高いところから迫ったのではありません。自分の罪深さに悩み苦しむ、わたしたちのもとに来られ、罪の身代わりとなられたのです。
本日の聖書 マタイによる福音書7章21,24節
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に家を建てた賢い人に似ている。」
宣教題「行う人になりなさい」 牧師 新保雅雄
建設会社の現場事務所には、長である監督がいる。その監督も頭があがらないのが現場を設計した設計士である。建て主の依頼によって設計士ができる限りの知恵を絞り建物の案を作り予算を算出して設計図面を作る。現場監督と言えども設計士の意見に従わなくてはならない。すべての工程は、この設計士の思い通りに進んでいく。
その設計士が気を使わなくてはいけないのが、現場で汗をかいて働く職人である。彼らは、体で現場を感じるのです。青写真から立体的に建物を思い浮かべていきます。図面をひと目見ただけで建物の良し悪しを判断する。よい建物か手抜きか見破る。彼らは頭で考えるのではなく体で行って建て主の要望を満たす建物を造るんです。
信仰も同じです。頭の中でいくら知恵を持っていても、いくら聖書に精通していても、口では立派に語れたとしても、生活の中に神の御心が生きていなければ、何になるでしょうか。信仰的に立派で、尊敬される者が、父なる神の御心を行っているとは限らない。
主は、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に家を建てた賢い人に似ている」と言われました。
ここでいう賢さは、頭の良し悪しではありません。平和な時には、賢い人も愚かな人も区別がつかない。逆境の時に、主の言葉を自分のものとしている人は強い。主の御言葉は、実行されて初めて力になるのです。言うだけ、聞くだけは、誰にもできることです。
主の御言葉を行う人こそ、それを自分のものにしているということである。主を信じる者には、主がそれを行う力も備えて与えてくださるのです。信仰は神の恵み。行いは主の力の支えによるのです。