本日の聖書 詩編1編2,3節
「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結ぶ、葉もしおれることがない。
その人がすることはすべて、繁栄をもたらす。」
宣教題「ほとりに植えられた木」 牧師 新保雅雄
いまあなたは、辛いかもしれない、苦しいかもしれない、泣きたいときがあるかもしれない。しかし、「ときが巡り来れば実を結ぶ、葉もしおれることがない。」
人は誰でも幸福な人生を送りたい。そう思いながら生きてきました。しかし今の自分は、自分の思いとは程遠い人生を送っている。どこでどう間違ってしまったのだろうか?
では、人はどのような生き方をすれば、幸福な人生を歩めるのだろうか? 主は、詩人を通して、その答えを語られます。「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」。そして「流れのほとりに植えられた木」になることです。
私たちは、今日ここに、主なる神によって招かれています。沢山の愛に満たされる為です。主なる神によって愛され生かされている。それを知るなら(主の教えを愛し)、今度は、あなたがいただいた愛を隣人に分けてあげる番です(昼も夜の口ずさむ人)。主と共にある人生(流れのほとり)、そこが幸福な人生です。
命に満ちている生きかたは、自分はもちろんのこと周囲の人にも大きな影響を与えます。生きる気力を分け与えます。あなたの魅力的な生き方は、周囲の人に大きな影響を与えます。主イエスがそうであったように、自分をそして周りを変える力があります。
ああ主よ感謝します! どうか、わたし達を罪の中に留めないで下さい。あなたを口ずさむ人とさせて下さい。あなたのほとりにいつもありますように。そして信仰の実が豊かに実りますように。
本日の聖書 使徒言行録2章37〜38節
人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
宣教題「神の賜物、悔い改め」 牧師 新保雅雄
聖霊に満たされて使徒ペトロは語ります。主イエスこそ、約束されたダビデの子であり、死の苦しみから解放されて復活された、メシア、キリストである。と沢山の人々に力強く証しました。
するとそれを聞いていた人々は、「大いに心を打たれ、兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と問いかけます。(37節)。それに対してペトロは、悔い改めを迫ります。
ペトロの宣教は、集まった一人一人が犯した「自分の罪」として、自分自身の「悔い改め」を迫るものとなりました。この悔い改めから、最初のリヴァイヴァル(信仰復興)が生まれていくのです。
百二十人ほどの小さな群れが(1章15節)、悔い改めによって三千人もの信仰者が加えられ、大きな群れとして、エルサレム教会、すなわち初代のキリスト教会の姿が出来上がっていきます。
このようにキリスト教会は、聖霊の働きによる悔い改めから起こされていくのです。逆に言えば、真実な悔い改めのないところでは、どれほど多くの人が集っていても、奉仕がなされていたとしても、それは神の教会からは、程遠いものになってしまいます。
なぜなら「悔い改め」は、神から来るのであり、神が私達の内に起こしてくださるものなのです。ですから私達は、この神の働きが自身の中から興されていくように、祈り求めなければならないのです。「悔い改め」は、自分の努力と意志だけで成り立つものではなく神からの賜物なのです。神の御働き無しに悔い改めは興きません。
本日の聖書 使徒言行録1章13〜15節
彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。
宣教題「二階の祈りの部屋」 牧師 新保雅雄
「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」(4、5節)という、主イエスの約束を思い出した弟子達は、彼らがとどまっていた二階の部屋で、熱心に約束の聖霊を待ち望み、心を「一つ」にした「祈る群れ」となりました。
そのとき彼らは、わずか百二十人ほどの小さな群れにすぎず、依然として主イエスに対して無理解でした。しかも裏切り者の集団であり、不信仰と無理解の群れです。ユダヤ人からの迫害を恐れて、家の中にひっそりと隠れていた、小心で無力な人々でした。
主イエスの十字架の後の最初の教会は、弱い群れにすぎませんでした。しかし彼らは「一つ」となって「祈る群れ」でした。そして祈る彼らのただ中にキリストは臨在し、祈りに応えて下さる。
「もし、あなたがたのうちふたりが、どんなことでも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。二人、三人、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」(マタイ18章19、20節)
私達の教会に、そして私達一人一人にも、この「二階の祈りの部屋」が必要なのです。自分の働きを始める前に、まず祈ることです。祈って、神が自分の中で働きを支えてくださることを求めるのです。
それがどんなに小さく無力な、欠けた者たちの集まりであっても、それは力強いキリストの教会となっていくのです。
本日の聖書 ヨハネによる福音書12章3〜6節
そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。
宣教題「ユダの裏切り」 牧師 新保雅雄
今朝は「ユダの裏切り」から学びます。主イエスは、十二使徒の一人としてユダを選びました。彼を愛していたからです。そして大きな信頼も寄せていました。それ故彼に、群れのお金をすべて預けていたのです。しかし彼は、群れと主イエスを裏切ってしまいます。
彼は、その信頼を悪魔に狙われてしまいました。悪魔の誘惑は、わたし達の弱いところを狙ってくるように思います。しかし、必ずしもそうではないことが分かります。このユダのように、金庫をまかされる信頼と能力のあるところを狙ってくるときもあるのです。
会社を経営することにたけている人を悪魔は狙います。立ち上げたときは社員のために、社会のために、そう思い社員に感謝して仕事をします。しかし、経営がうまくいき、「さすが」といわれていくうちに、「会社は自分のもの、私が大きくした」に変わっていくのです。群れのものが自分のものへ、ユダと同じ「盗人」の罪を犯していきます。悪魔が彼の能力を誘惑していくのです。
わたし達の誇るべき能力(賜物)成功は、自分のものではなく、神からいただいた賜物だとするなら、自分自身を自慢する、うぬぼれる、そして自分を誇ることは、なくなるのではないでしょうか。成功すればするほど主に感謝する謙虚な心が求められているのです。
「信仰は感謝で始まり感謝で終わる」世の全ての物(恵み)は、神の創造物であり、私達人間は、その物の管理者なのです。そして私たち自身も神の創造物なのです。
本日の聖書 ヨハネによる福音書11章3、4節
姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
宣教題「死の先にあるもの」 牧師 新保雅雄
「わたしには、まくらするところもない。」と言われた主イエスにとって、このベタニアの家族達は、心から休まる家だった。この安らぎの親友ラザロが病気で死につつある。
弟のラザロが病にかかり、なすすべもなく悪化していき、ついに死に直面している。マルタとマリアは、絶望してあきらめるのではなく、主イエスの所に人を遣いに出したのです。そして「主よ、あなたの愛していられる者が病気なのです」。と言わせた。
しかし、ラザロは、死んでしまいます。主イエスがそこへ着いたのは、死後四日たっていました。
このラザロの死に対して、主イエスは言われます。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
では「この病気は死で終わるものではない。」とはどういう意味でしょうか?‥‥「死ぬほどの病気ではない。大丈夫」という意味でしょうか? しかしこのあと、ラザロは死ぬのです。
私たちは、人間死んでしまえば、すべてが終わりであるかのように思う。しかし、それが主イエスによって変わるのです。 主イエスは「この病気は死で終わるものではない」と言われるのです。主イエス・キリストによって、そのように変えられるのです。
必ず人は死を迎えます。しかし死は人間の人生の最終目的地ではなく。今日の主イエスの言葉によれば、私たちが主イエスに、自身の命をゆだねた時、それは「死で終わるものではなくなる」。その先にある神の国へとつながっていくようになるのです。