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板橋区仲町23−17
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(新保牧師携帯)
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投稿者 : church 投稿日時: 2020-07-18 23:37:40 (584 ヒット)

 本日の聖書 マタイによる福音書8章26節


「イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。」

宣教題「船出」   牧師 新保雅雄

主イエスは、弟子たちに向かって、ガリラヤ湖の向こう岸に行くように、命じられました。ここには、主イエスによって病気を癒していただいた人々で溢れています。弟子たちにとってみれば、ここは居心地の良い場所です。ちょうど教会のような所です。

ところが、主イエスは、こうした居心地の良い場所に、弟子たちが留まることを、お許しになられませんでした。そして、弟子たちを追い立てるように、向こう岸へ行くようにと言われたのです。

その時、律法学者が、主イエスに近付き言いました。「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります。」

対して、主イエスは、答えました。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」

主イエスに従うことが、決して生易しいことでなく、寝る場所さえ無いほどの厳しさを覚悟しなければならないのだと、言われたのです。確かに、自分の思いを、神に明け渡し、主イエスの導きに素直に従うことは、口で言うほどには、簡単なことではありません。

それでも、主イエスは、「わたしに従いなさい」、「向こう岸へ行きなさい」と、弟子たちに言われます。そして主イエスが舟に乗り込まれ弟子たちも従いました。その時、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうです。弟子たちは、眠っている主イエスを起こすと訴えました。「主よ、助けてください。おぼれそうです。」

主イエスは、起き上がって、「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」そう言われ風と湖をお叱りになると、嵐は止み、すっかり凪になったのです。主イエスの一声で風が止み、穏やかさが戻って来たのです。あなたの人生の船には、主イエスが共におられるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2020-07-12 07:32:44 (595 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書8章17節

「彼は わたしたちの患(わずら)いを負い、

わたしたちの病を担った」

宣教題「苦しみの主」  牧師 新保雅雄

主イエスが、ペトロの家に行った時のことです。ペトロの、しゅうとめが、熱を出して寝込んでいました。主イエスは、しゅうとめの手に触れられると、熱が去って、起き上がることが出来るようになり、しゅうとめは、主イエス達一行をもてなし始めたのです。

その日の夕方、うわさを聞きつけた人々が、悪霊に取りつかれた人を大勢、主イエスのもとに連れて来ました。主イエスは、同じく言葉で悪霊を追い出し、病人を皆癒されました。

病気が全て、悪霊に因るのではありませんが、悪霊に対して、無頓着であってはなりません。目には見えなくとも、確かに存在するからです。  

この悪魔は、手を変え、品を変え、神から、私たちを引き離そうとします。つまり祈ることを止めさせ、教会や信仰を批判し、神の力を否定し、救いなどはないと言う。肉に頼るべきとする思いを助長させるのです。

主イエスの病人への癒し、一見、ご自身は、いささかも傷付くことなく、痛むこともなく、悪霊を追い出し人を癒す神の子、救い主イエス・キリストの姿が示されているように思われます。

しかし、マタイは、苦難の僕として、人を救う主イエスの姿をイザヤ書から引用して明らかにしています。それは、「わたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」主イエスの姿です。

実に、主イエスは、人の病、患い、痛みを、自らの身に引き受けてくださいました。自らが代わりに、その痛みを引き受けてくださることで人を癒されたのです。病の中に苦しむ人の苦しみは、主イエスはご存じである。

 ここに、神の愛があります。それは十字架による身代わりの死で示された愛です。


投稿者 : church 投稿日時: 2020-07-05 08:00:57 (633 ヒット)

 本日の聖書 マタイによる福音書8章8節


「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃって下さい。そうすれば、わたしの僕は癒されます。」

宣教題「言葉を信じたとおりになる」  牧師 新保雅雄

ガリラヤ湖の北岸カファルナウムに、主イエスが入られると、百人隊長が主イエスに近付いて来て熱心に願いました。

「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます。」

主イエスは、言われました。「わたしが行って、癒してあげよう。」

ところが、百人隊長は、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」と答えたのです。百人隊長は、自分自身が異邦人であることを意識して、主イエスに家に来ていただくことを断ったのです。

百人隊長は、自らの百人隊長としての経験を引き合いに出しました。兵士に向かって、「行け」と言えば行き、「来い」と言えば来るのです。また、部下に、「これをしろ」と言えば、そのとおりにするのです。権威が、百人隊長に託されているからです。

百人隊長は、主イエスの言葉には権威があり、その言葉が、言葉どおりに実現することを、百人隊長は知っていたのでしょう。主イエスは、この百人隊長に感心して言われました。

「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」

これは私たちへの警笛でもあります。私たちは、救われている恵みに無頓着になり、恵みを感謝する素直な心を失っていないでしょうか。主イエスは、再び百人隊長に向かって言われました。

「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」

ちょうどその時、百人隊長の僕の病気は癒されました。百人隊長が主イエスの言葉を信じた時、僕は癒されたのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2020-06-28 08:20:19 (566 ヒット)

 本日の聖書 マタイによる福音書8章3節


「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち、皮膚病は清くなった。」

宣教題「愛に触れる」     牧師 新保雅雄

主イエスが、「山上の説教」を終えて山を下りると、一人の重い皮膚病の人が近寄って来ました。そして、こう言いました。

「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」

これは、何とも遠慮がちな奥ゆかしい、願い事です。もっとストレートに、「主よ、今すぐ、憐れんでください。助けてください。清めてください。苦しいのです。お願いです。」と言って、すがりついても良かったのにと思ってしまいます。

しかし、この言い方にこそ、この人が長年味わって来た苦しみの深さを見ることが出来るのです。この病の苦しみがあまりに深過ぎて、この人は、すこし遠まわしな言い方になってしまったのです。

当時、重い皮膚病は、病気の苦しみと社会的に阻害される苦しみとの、二重の苦しみを負わされる病だったのです。是が非でも、清めて欲しいと、この人は、強く願っていたことでしょう。「助けて欲しい」と叫びたくなる気持ちだったことでしょう。この病さえ癒されたならば、社会に復帰することが出来る。孤独から解放され、人の温かいぬくもりにも、触れることが出来るからです。

それにも拘らず、この人は、切実な思いを、真っ直ぐに伝えることが出来ませんでした。人から受け入れてもらえなかった経験というのは、積み重なると、その人から言葉さえも奪うものです。しかし、主イエスに、この人の深い苦しみが痛いほど伝わったのです。

主イエスは、この人に手を差し伸べ、この人に触れ、言いました。「よろしい。清くなれ」すると、たちまち、重い皮膚病は癒され、この人は清くなったのです。愛が形となって触れた瞬間です。


投稿者 : church 投稿日時: 2020-06-21 07:45:40 (596 ヒット)

 本日の聖書 マタイによる福音書7章25節


「雨が降り、川があふれ、風が吹いて、その家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」

宣教題「あなたの人生の土台は?」 牧師 新保雅雄

主イエスの教えを熱心に聞くことは、たいへん重要なことです。「耳のある者は聞きなさい」(13:9)しかし、聞くだけで終わることなく、それを実践することがあって初めて硬い信仰になるのです。

主イエスは、このことを教える為に、家を建てた二人の人のたとえを語られました。家を何処に建てるかということは、その人の生活の基盤を、何処に何の上に定めるかということなのです。

ここに登場する二人の人は、対照的な場所に家を建てました。一人は、岩の上に自分の家を建てました。がっしりした、堅固な土台の上に家を建てたのです。ところが、もう一人の人は、砂の上に家を建てました。

しばらくして二つの家を、嵐が襲いました。雨が降り、川があふれ、風が、家を目掛けて吹き付けて来たのです。岩の上に建てられた家の方は、岩を土台としておりましたので、激しい雨風に襲われても、倒れることは、ありませんでした。一方、砂の上に建てられた家は、当然のように倒れて、その倒れ方はひどかったのです。

人生の荒波や嵐に襲われた試練の時にこそ、何を人生の土台として歩んでいるのかが問われます。それは、普段、意識していないことであるかも知れません。しかし試練の時、何に人生の基礎を置き、何を支えに生きているのかが露わになるのです。

私たちは、何に基礎を置き、何を支えに生きているのでしょうか。イザという時に、私たちは、何に頼るのでしょうか。聖書の言葉でしょうか。それとも、この世の知恵や知識や経験、自分の能力、財力でしょうか。艱難にあうとき、土台があらわにされます。


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