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新住所
板橋区仲町23−17
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090-8801-0111
(新保牧師携帯)
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投稿者 : church 投稿日時: 2019-01-13 06:51:17 (647 ヒット)

 本日の聖書  ルカによる福音書2:30〜31

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」

宣教題「あなたの救いを見た」 牧師 新保雅雄

主イエスが、ベツレヘムでお生まれになってから、40日ほど経った時のことです。クリスマスから数えれば、2月上旬ごろです。

律法によると、男の子を産んだ時には、40日間は、清めの期間とされ、神殿に詣でることが、禁じられていました。 この期間が過ぎたので、早速、マリアとヨセフは、幼子である主イエスを連れて、エルサレム神殿に行きました。 

こうして、マリアたちが、神殿の境内に入っていくと、ちょうど、シメオンという人が、神殿の境内に入って来ました。このシメオンは、「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊がとどまっていた」と言われている人です。

このシメオンは、かつて、神が遣わす救い主に会うまでは、決して死なないというお告げを受けていました。 このお告げをシメオンが聞いてから、どれほどの歳月が経ったことでしょう。毎日毎日、この日を待ち続けたことでしょう。そして、遂に、この日、神の導き、引き合わせによって、エルサレム神殿の境内で、シメオンは、待ち望んでいた救い主イエスに、出会ったのです。

この瞬間のために、シメオンは人生を歩んで来ました。実に、救い主と会うことこそ、シメオンにとって、人生の目的となっていたのです。

シメオンだけでなく、本当は、全ての人にとって、救い主と出会うことは、人生の究極の目的となるのでは、ないでしょうか。そして、今や目的を果たしたシメオンは、心から、神を賛美して歌い出しました。 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」人は主と出会うときに、すべての恐れ、疑いから解放される。救いの完成が近いことに、喜びを見出す。死への恐れが消え去るときである。


投稿者 : church 投稿日時: 2019-01-06 06:10:51 (747 ヒット)

 本日の聖書  マタイによる福音書11:28〜30

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

宣教題「疲れた者、休ませてあげよう」 牧師 新保雅雄

主イエスは言われました。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」現代社会、多くの人が疲れを覚え、重荷を負って苦しんでいるのではないでしょうか。

例えば生活への不安、職場や学校での人間関係の難しさ、家庭内の問題、夫婦、嫁姑、親子関係の悩み、将来への不安もあります。健康の不安、そして死への不安。多くの重荷を負い、心が疲れます。

では主イエスは、どのようにして私たちを休ませ、重荷を取り除いてくださるのでしょうか? 28節「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」。そして29節「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」

「軛」というのは、牛の首にあてる木です。牛の首に軛を付けて荷物を引かせたり、土を耕したりさせました。つまり、牛を農作業で働かせるための自由を奪う道具です。

私たちは「この世の軛」を首に掛けられて自由を奪われているから、苦しんだり、悩んだり、心が疲れたり、重荷を負ったりするのです。「休む」とは、そういうこの世の重荷、この世のくびき、自分にかけられたくびきが、なくなることが、休まることではないか。そう思うのです。 

ところが、この世のくびきを首にかける代わりに、主イエスのくびきを首にかけなさいと言われるのです。軛がなくなるのではなく、新たに主イエスの軛をかける。とは何故なのでしょうか?


投稿者 : church 投稿日時: 2018-12-30 06:49:16 (638 ヒット)

 本日の聖書 コリントの信徒への手紙第一 6:19〜20 

「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから自分の体で神の栄光を現しなさい。」

宣教題「あなたは神が宿る神殿」 牧師 新保雅雄

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」ここで、代価と言われているのは、主イエスが十字架で犠牲となってくださったことを現しています。実に、主イエスが十字架で犠牲となってくださったことは、私たちを罪から救い出し、神の赦しを得るために、神ご自身が支払ってくださった代価(神の愛)なのです。

私たちは、買い物をします。買い物の際に、代価として、それぞれに付いている値段のお金を支払います。わたし達が買い取られた代価の値段は、なんと御子の命ということなのです。つまり神は、わたし達を、それほどまでに愛されている事がわかります。

しかし私たちは、こんなにも愛されていると言うことを忘れてしまって、自分勝手に生きてしまいます。それは買い取られたということを忘れてしまうことです。神から離れてしまうことなのです。私たちが、自分勝手に生きるならば、そこには愛がありません。

ここでパウロは「わたしには、すべてのことが許されている」と2回も繰り返されています。おそらくコリント教会の中のクリスチャンでしょう。主イエスの十字架によって救われたこと、罪が赦されたことが、いつの間にか自分自身の信仰によると自負してしまう。

信仰生活が長いと、自分自身が正義である、愛ある人である、罪を犯さない善人である。私は優れたクリスチャンであると、勘違いしてしまい、傲慢になり自分を誇る。そして弱い求道者を見下してしまう。

「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」私たちが素晴らしいのではなく、神が聖霊として宿るから、その器も光輝くのです。誇るべきは父なる神である。


投稿者 : church 投稿日時: 2018-12-23 07:19:19 (781 ヒット)

本日の聖書  マタイによる福音書2章1節〜

宣教題「あなたの宝の箱を開けなさい」 牧師 新保雅雄 

「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者達が東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』

彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者達はその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」

東方の占星術の学者達が、遠くの国から星に導かれてエルサレムにやってきました。そしてベツレヘムの幼子を見つけ出しました。そこには、幼子が母マリアと共にいました。学者たちは、ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を献げたのです。

わたし達も今日クリスマスに、この場所に導かれました。それぞれがいろいろな思いを抱えてこの場所にいます。私たちは今日何を携えて、この場に導かれたのでしょうか。あなたの宝の箱には、何が入っていますか?



私がクリスマスの意味を理解できたのは、教会へ行く様になった30歳の頃です。それまでクリスマスとは、イエス・キリストの生まれた日を祝う日ぐらいの理解でした。私にとってクリスマスは、行きつけの飲み屋で、気に入った女の子と大酒を飲み、朝までドンチャン騒ぎをする日でした。

教会で初めてのクリスマスを迎えるときに、私はバプテスマを受けました。前の年までのクリスマスとは、まったく違うクリスマスでした。それはまさに昨年までの古い自分を脱ぎ捨て、新しい自分に生まれ変わるときでした。静かな讃美歌の中で本当の新年を迎えたのです。それ以来、バプテスマ記念日である新年は、私にとってクリスマスなのです。 

もし、教会の門をくぐっていなければ、いまだに私は、本当の新年を迎えられなかったでしょう。相変わらず朝まで、歌舞伎町で飲んだくれて、大騒ぎをしていたと思います。

クリスマス、主の誕生日、その日、教会でバプテスマを受けて救われました。十字架とは、世のたどり着く姿であり、復活とは信仰の人生である。このことを理解できるのに、そう時間はかかりませんでした。

今年も新年を迎えられ感謝いたします。ア-メン   牧師 新保雅雄


投稿者 : church 投稿日時: 2018-12-16 06:50:04 (716 ヒット)

 本日の聖書  ルカによる福音1章26〜35節

宣教題「おめでとう、恵まれた方」   黒瀬 博 牧師

六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。

天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。

すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。


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