本日の聖書 コリントの信徒への手紙第二11章29節
「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。」
宣教題「十字架の痛みを知る」 牧師 新保雅雄
この手紙は、パウロが自身の開拓伝道によって開設した、ギリシャのコリントにある教会宛てに出した手紙です。パウロが留守の間に、偽使徒がやってきて異なった教えを語りました。救われる為には、主イエスへの信仰だけでなく、律法厳守も必要だというのです。
十字架によって罪から解放され、自由にされた兄姉が、再び奴隷にされようとしているのです。そして彼らは、神に選ばれた我々ユダヤ人こそ、最も偉いという横柄な態度を取りました。
コリント教会の信徒たちは、パウロの言葉よりも偽使徒の教えを信じようとしていました。そして彼らは、パウロを愚か者としたのです。危機感を抱いたパウロは、この手紙に「今度そちらに行ったら、容赦しません」13:3と書きしるし、彼らに注意と警告を呼びかけています。その中で今日の御言葉が語られています。
パウロにとって、コリント教会の兄弟姉妹が弱っていることは、他人事として見過ごすことが出来ません。兄弟姉妹が弱っているなら、自分自身も同じように、弱らざるを得ない。パウロは、コリントの兄弟姉妹を自分自身と同じであるといわれています。
本来の福音から離れて、つまずいている人のことも、パウロにとっては自分自身の痛みであり、決して他人事ではないのです。気が気で無く、何とかしたいと立ち上がりました。
何故なら、過去パウロ自身も同じように福音を迫害していた者だからです。しかし神の憐れみによって、救われた経験者だから放っておくことが出来ないのです。かつて自分が犯した過ちを、再び兄弟姉妹が繰り返すことの無いように、パウロは神の愛を語り続けました。コリントの兄弟の痛みは、パウロ自身にも同じ痛みなのです。
ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
宣教題「キリストの教会とは」 牧師 新保雅雄
聖霊の降臨によってなされたペトロの説教によって、「三千人ほど」の人々が悔い改め、洗礼を受けて、新しくエルサレム教会の仲間に加えられました。そして本日の聖句は、その後、キリスト教会が、どのような信仰生活を送っていくのか、教会とは何か、が語られています。
「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(42節)。ここに教会とは何か、教会とは何をするところなのか、教会の本質が記されています。
ではこの「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ること」とは、どういうことでしょうか。まず「使徒の教え」とは、私たちでいえば「御言葉と宣教」のことです。主イエスが地上で語られた福音、そして主が行われた恵み、その事実を証人が語る証です。中心は「十字架と復活」という救いの宣教でした。
そして「相互の交わり」とは、この御言葉を中心とした交わりです。そして「パンを裂くこと」、つまり聖餐のことです。そして心を一つにして祈る交わりの中に、主イエスは共にいると約束されました(マタイ18章19、20節)。そこがキリストが隣在される教会です。
教会とは、人間的な関係(肉的)での集まりではありません。それはどこまでもキリストを中心とした交わりなのです。ですからこの交わりは、一人一人が御言葉によって成長していくことなしには成り立ちません。礼拝によって一人一人が、信仰の成長を遂げていく必要があります。
本日の聖書 使徒言行録6章1〜5節
「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。 それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。 わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」
宣教題「弱者を受け入れる」 牧師 新保雅雄
本日の聖書箇所では、エルサレムに誕生した初代教会が異邦人伝道へ向かう出来事が記されている。異邦人伝道を行うギリシャ語を話すユダヤ人から、12使徒を補佐する7人が選ばれた。
ギリシャ語を話すユダヤ人とは、外国で生まれ育った国際的な教育を受けたユダヤ人、ヘレニストである。ユダヤで生まれ育ったヘブライ語を話すユダヤ人はヘブライストである。彼らは、言葉はもちろんのこと、文化風習や日常生活の習慣にも違いがあった。
特に律法に対する考えに大きな違いがあった。律法について、ヘレニストは、比較的ゆるく自由である。ヘブライストは、厳格に守ることが問われた。クリスチャンが増えていく中で、このような考えの違うグループによる対立が、次第に起こるようになる。
本日の箇所では、ヘレニストから具体的に、食事の配分について不公平だとする苦情が起こる。問題解決に対して使徒たちは、教会が成長していく中で、霊的な資質が低下したことにあると考え、
「祈りと御言葉の奉仕に専念する」ことができるように、ヘレニストの中から7人の奉仕者を選び「食事の世話」をさせたのです。
ここに教会のあり方を見ることができます。それは「強い者が弱い者を受け入れる」ということなのです。教会は、絶えず霊的な成長を求めること、そして弱い人の意見を大事に聞き受け入れること
その為にあえて弱者を、その中心に置くことになる。
本日の聖書 使徒言行録8章20〜22節
「神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。」
宣教題「聖霊は神の賜物」 牧師 新保雅雄
異邦人の町サマリアにおけるフィリポの伝道を補う為に、エルサレム教会からペトロとヨハネの二人の使徒が派遣された。そのサマリアに、シモンという魔術師がいた。彼は、使徒達の行う不思議な業を見て、自身もその力を手に入れたいと思った。
魔術とは、超自然的に見える現象を作り出し、その恐れによって、人々を自分に引き寄せる技術である。魔術師は、この技術を使って、金儲けをしていたのである。シモンは使徒達が行う奇跡の力を見て、これを使えば、新たな金儲けになると思い、その力をお金で手に入れたいとペテロに願った。
しかし、ペトロは魔術師シモンに「この金はお前と一緒に滅びてしまうがよい」と一喝する。「神の賜物」は「信仰によって与えられる」ものである。それをお金で買うことは出来ない。ましてや金儲けの道具には出来ない。神の恵みとして頂くものである。
使徒言行録には、魔術師との対決が、今日の聖書箇所の他に3ヶ所出てくる。1、キプロスの魔術師エリマ(13:4〜)、2、フィリピの占いの霊に取りつかれた女(16:16)、3、エフェソのユダヤ人祈祷師(19:11)。魔術や占いはローマ時代には数多くあった。
現代の日本社会でも霊感や魔術的なものに心を引かれやすい。魔術や占いは、人間中心、現世利益中心の社会と結びつきやすい。一時期、霊能者と言われる輩が流行し、ひと財産を残した。記憶に浅い.
本日の聖書 使徒言行録4章10〜節
あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです
宣教題「話さないではいられない」 牧師 新保雅雄
エルサレム神殿の「美しい門」での「生まれながらに足の不自由な人」の癒しをきっかけにして始められたペトロの説教。それによってペトロとヨハネは逮捕されました。彼らを逮捕したのは、「祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々」ユダヤ人指導者達でした。
その逮捕の理由は、十字架刑にかけられた主イエスの復活のことを、エルサレムの神殿で、堂々と語っていたからでしょう。その為ペトロとヨハネは、留置場に一晩、留置されることになりました。
「しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった」(4節)。ユダヤ当局からの逮捕、留置という出来事にもかかわらず。聞いていた人々は、益々「イエス・キリストによる救い」を信じてキリスト者になっていったというのです。
神の言葉に聞き従い、イエス・キリストの福音を信じる信仰に基づく大胆な宣教、そして行いが、この世のどんな権力の力にも勝っていくのです。ペテロ達、宣教者は大胆に語ります。「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(20節)
立つことも歩くことも出来ず、人生をあきらめて、長きに渡って苦しんできた人が立ち上がり、自身の人生を希望へ向かって生きていく。キリストの使徒達によってもたらされた福音の大きさを知る。その力は、私達が十字架にかけたイエス・キリストから来るのです。ああこの喜びを、恐れず多くの人々に語り告げたい。