本日の聖書 使徒言行録6章1〜5節
「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシャ語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。 わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」
宣教題 「弱者の目線に立つ教会」 牧師 新保雅雄
本日の聖書箇所では、エルサレムに誕生した初代教会が異邦人伝道へ向かう出来事が記されている。異邦人伝道を行うギリシャ語を話すユダヤ人から、12使徒を補佐する7人が選ばれた。
ギリシャ語を話すユダヤ人とは、外国で生まれ育った国際的な教育を受けたユダヤ人、ヘレニスト教会の中では少数派。対してユダヤ国内で生まれ育ったヘブライ語を話すユダヤ人、ヘブライスト役員や世話役の多くを占めていた。彼らは、言葉はもちろんのこと、文化風習や日常生活の習慣にも違いがあった。
特に律法に対する考えに大きな違いがあった。ヘレニストは、比較的ゆるく自由にとらえる。逆にヘブライストは、厳格に守ることが問われた。クリスチャンが増えていく中で、このような考えの違うグループによる対立が、次第に起こるようになる。
ヘレニストから食事の配分について不公平だとする苦情が起こる。問題解決に対して使徒たちは「祈りと御言葉の奉仕に専念する」ことができるように、ヘレニストの中から7人の奉仕者を選び「食事の世話」をさせたのです。
ここに教会のあり方を見ることができる。それは「強い者が弱い者を受け入れる」ということです。教会は、絶えず霊的な成長を求めること、そのために弱い少数の人の意見を大事に聞き、受け入れ、弱者の目線に立つ教会運営を行うことを学ぶことになる。
本日の聖書 使徒言行録8章20〜22節
「神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。」
宣教題 「金で神の恵みを買う者たち」 牧師 新保雅雄
異邦人の町サマリアにおけるフィリポの伝道支援の為、エルサレム教会からペトロとヨハネの二人の使徒が派遣された。そのサマリアに、シモンという魔術師がいた。彼は、使徒達の行う不思議な業を見て、自分もその力を手に入れたいと思った。
魔術とは、超自然的に見える現象を作り出し、その驚きによって、人々を信じさせる技術である。魔術師は、この技術を使って、金儲けをしていたのである。シモンは使徒達が行う奇跡の力を、お金で手に入れたいとペテロに願った。
しかし、ペトロは魔術師シモンに「この金はお前と一緒に滅びてしまうがよい」と一喝する。「神の賜物」は「信仰によって与えられる」ものである。それをお金で買うことは出来ない。金儲けの道具ではない。神の恵みとして頂くものである。
使徒言行録には、魔術師との対決が、他に3ヶ所出てくる。13:4、キプロスの魔術師エリマ、16:16、フィリピの占いの霊に取りつかれた女、19:11、エフェソのユダヤ人祈祷師。今も昔も魔術の類は数多くあった。
最近のニュ―スにもあった。霊感商法、霊能者の占いなるものを連想させる。お金で願いが叶う、幸福が買える。この手の魔術や霊感占いは、現世利益中心の人の心、艱難辛苦に悩む人と結びつきやすい。彼らは、そこを狙って入り込む。
一時期、霊能者と言われる詐欺師が流行し多大な財産を残した。記憶に新しい。人の心は、現生利益に弱いものだ、その弱い心に付け込むことは、神が赦さない。
本日の聖書 使徒言行録4章10節〜
あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。
宣教題 「この喜びを多くの人々に語りたい」 牧師 新保雅雄
先週からの続きです。エルサレム神殿の「美しい門」で「生まれながらに足の不自由な人」を癒したペトロとヨハネは、「祭司、神殿守衛長、サドカイ派の人々」、つまりユダヤ人指導者に逮捕され、留置場に一晩、留置されてしまいました。
逮捕の理由は、十字架にかけられた主イエスの復活を、神殿で堂々と語っていたからでした。
「しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった」(4節)。ユダヤ当局からの逮捕、留置という出来事にもかかわらず。聞いていた人々は、益々「イエス・キリストによる救い」を信じてキリスト者になっていくのです。
神の言葉に聞き従い、イエス・キリストの福音を信じる信仰に基づく大胆な宣教、そして行いが、この世のどんな権力の力にも勝っていく。ペテロ達、宣教者は大胆に語ります。「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(20節)
立つことも歩くことも出来ず、人生をあきらめて、長きに渡って苦しんできた人が立ち上がり、自身の人生を希望へ向かって生きていく。キリストの使徒達によってもたらされた福音の大きさを知る。その力は、私達が十字架にかけたイエス・キリストから来るのです。ああこの喜びを、恐れず多くの人々に語り告げたい。
本日の聖書 使徒言行録3章2〜8節
生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめているとペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
宣教題 「主の名によって立って歩く」 牧師 新保雅雄
神殿の「美しい門」で、足の悪い男が物乞いをしていた。彼は門のそばにいたが、一度としてその門をくぐって神殿に入り礼拝を奉げ、神を讃美することは無かった。
門のそばに座り、わずかな施しのお金で、その日を生きる。それは人の支えによって生きる40年であった。しかし、二人のキリスト者に出会うことによって、まったく新しい人生へと方向転換して行くのである。彼は、生きる意味と生きる力、生きる目標を与えられた。人の支えから神の支えと変えられたのであった。
その変化を起こしたのが、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」とペテロ達を通して語られた祈りである。彼の望んだ物は金銀、そして今日のパンであった。彼の命は、その日暮らしである。ペトロは、食べればなくなるパンではなく、神の御子イエスの生きたパンを求めなさい、と語る。
そのとき奇跡が起きる。彼は自分の足で、自分の人生を歩き出したのです。彼の信仰ではなく、ペトロの祈りで救いが起きるのです。今日、私達が肉の満たし、不純な動機で、教会に来たとしても、神は全てをご存知である。願いや信仰よりも、神の救いが先にあるのです。ペテロのように周りに関心を持てるように。
本日の聖書 ルカによる福音書17章11〜14節
イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。
イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
宣教題 「信仰と救い」 牧師 新保雅雄
主イエスと弟子達がエルサレムへ向かう途中の村でのことです。重い皮膚病を患っている十人の人達。悲痛な叫びで憐れみを願った。恐らく主イエスを噂で知っていたのだろう。
この病気は、当時、伝染病、更に罪の汚れとして社会から締め出され、人前に出られない隔離された生活を送っていた。その為、主イエスに近づけず、遠くから叫んだのです。
「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください。」すると主イエスは彼らに「祭司たちのところへ行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは主イエスの言う通りにしました。
祭司の所へ行く途中、十人全員が癒された。主イエスは「皮膚病が癒されよ、清くなれ」と言ったのではなく、ただ「祭司たちのところへ行って、体を見せなさい」と言われただけなのです。
彼らは、信じて主イエスのお言葉に従っただけなのです。そのとき癒された。まさに信じて従うとき、癒しが始まる。しかしその後、神に感謝するために戻って来たのは外国人一人だけだった。
恐らく他の9人はユダヤ人だと思われる。彼らの癒しは元の社会へ戻ることです。外国人は元の社会ではなく、主イエスとともに神のみ国へと続く、信仰の道であった。
主イエスは言われた「あなたの信仰があなたを救った」救いとは肉体の癒しだけではなく。信仰復興への癒しなのです。