本日の聖書 マタイによる福音書12章20,21節
「正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。」
宣教題「希望の主」 牧師 新保雅雄
主イエスは、ファリサイ派の人々が、自分に殺意を抱いたことを知ると、争いを避けるように、その場を立ち去られました。ファリサイ派の人々との論争に時を使うよりも、傷付き苦しんでいる人々を救うことにこそ、時を用いようとされたのです。
そんな主イエスの後を追うように、大勢の群衆が付いて行きました。すると、主イエスは、彼らに病気を癒したことを言い触らさないように、と口止めされたのです。
主イエスは、以前にも重い皮膚病の人を癒された時に「だれにも話さないように気をつけなさい」(8:4)と口止めされました。
主イエスは有名になりたい訳でも、人から、ほめられ尊敬されたいわけでもありません。ただ、ひたすら、苦しむ人々を救うことに専念したいのです。だからこそ、御自分のことを言い触らさないようにと、口止めされたのではないだろうか。
また、人々の病を癒す奇跡だけが、主イエスに託された務めでは、ありません。むしろ、神に背き、神を忘れ、自分の都合ばかりを優先する人々に、神がおられること、そして神は一人一人を愛しておられることを伝え、一人でも多くの人が、神に立ち帰るようになることこそが、神から主イエスに託された最も大きな務めでした。
だからこそ、主イエスは、「人を癒す、奇跡を行う人」というイメージだけが、先行して一人歩きすることを避けるために、御自分のことを言い触らさないようにと戒められたのでした。
マタイによる福音書は、このような主イエスへの希望を、預言者イザヤの言葉(イザヤ書42章1〜4節)を引用して明らかにしています。(マタイ12章18〜21節)
本日の聖書 マタイによる福音書12章7節
もし『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。
宣教題「裁きではなく憐れみの心を」 牧師 新保雅雄
安息日に、主イエスと弟子たちは、麦畑を通られました。その時、空腹であったので、麦の穂を摘んで食べました。その様子を見ていたファリサイ派の人々は「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と主イエスを批判しました。
ファリサイ派の人々は、麦の穂を摘むことは「収穫という労働」になるので、安息日には禁じられているというのです。対して主イエスは、こう言われました。かつてダビデ王が、自分も供の者たちも空腹であった時に、祭司のほかには食べてはならない、供えのパンを食べたこと、さらに安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならないではないか。
主イエスの弟子たちは、祭司が神殿に仕えるように、キリストに仕え福音に生きる人々に救いをもたらせるのであるから、祭司に認められているなら、私の弟子たちにも認められて当然であるという。
さらに「わたしが求めるものは憐れみであって、いけにえではない」あなた方ファリサイ派の人々が、主イエスの弟子たちを非難するのは、憐れみの心が無いからだと言われました。
時に、信仰への熱心さ、真面目さから、原理原則論が信仰のすべてであるような、信仰とはこうあるべきだ。このことが弱い者を非難していくということにつながっていく。教会が弱い人への優しさや配慮を失い、憐れみを捨て、人を裁くことに熱心になっていく。
勿論、原理原則は重要です。しかし、白か黒かで人を縛るのではなく、出来ない人を受け入れることが大切なのです。世間で落ちこぼれて宗教の門をたたいたのに、そこでもふるいにかけられ落ちこぼれていく、彼らは、いったい何に誰に、すがればいいのだろうか。少なくとも落ちこぼれを非難するのが宗教ではないはずです。
本日の聖書 マタイによる福音書11章28〜30節
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
宣教題「休ませてあげよう」 牧師 新保雅雄
私たちは人生を生きる中で、疲れて何も出来そうにないときがあります。こんなに一生懸命に努力しているのに「こんな筈ではなかった、どこで間違えたのか」と、思わず愚痴りたくなる時があります。
いつも時間に追われ、仕事にも追い掛け回され、また家庭に帰っても沢山の問題が、私たちの背中に覆いかぶさって来るようです。口から出て来る言葉が、「疲れた」とか、「休みたい」という言葉ばかりであることに気が付く。ここから逃げ出したいそう思う。
そんな私たちに主イエスは、言われる、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」では主イエスは、どのようにして私たちを休ませ、重荷を取り除いてくださるのでしょうか? 29節「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と言われる
「軛」とは、牛の首にあてる木です。この軛を引いて荷物を引かせたり、土を耕したりします。つまり牛の自由を奪い働かせるための道具です。私たちも「この世の軛」を首に掛けられて自由を奪われているから、苦しんだり、悩んだり、心が疲れたりと重荷を負っています。「休む」とは、世の重荷という「軛」がなくなること、主イエスの軛とは、世の重荷からの解放、自由になり休むことです。
主イエスは、この世の軛の代わりに、私の軛を首にかけなさいと言われます。軛がなくなるのではなく、新たに主イエスの軛を負いなさいとは、何なのでしょうか? それが十字架の愛なのです。あなたを世の束縛から解放するために、主イエスは十字架にかかり、あなたを解放し自由を与えてくださる。軛という愛のことです。
どうか人生に疲れ一杯々になったら、主イエスのもとへ。
本日の聖書 マタイによる福音書11章20節
「お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。」
宣教題「悔い改めない町を叱る」 牧師 新保雅雄
今朝の聖書個所は、主イエスが悔い改めを求めて、たいへん厳しく町々を叱り付けています。叱り付けている町は、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムというガリラヤの町々です。
これらの町は、度々聖書に出てくる町です。ここで主イエスは、沢山の奇跡を行い、悪霊を追い出し、病気の人々を癒されました。
ところが、これらの町々に住む人々は、奇跡を目の当たりにしても、主イエスをキリストとして、悔い改めて神に立ち帰ることがありませんでした。そこで主イエスは、強く叱り付けたのです。
「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ」。この「不幸だ」という言葉は、ユダヤ教の会堂への出入り禁止を宣告する時にも用いられる、大変厳しい言葉です。
これらのガリラヤの町々を批判するために、悪名高きティルスやシドン、それにソドムを喩えに出された程、これらの町々は、不道徳に満ちた町なのです。不道徳な町ソドムを、神は滅ぼそうとしました。そこでアブラハムは、神に滅ぼさないように繰り返し願いました。しかしそんな願いも空しくソドムは滅ぼされました(創18)
主イエスは、ソドムを始めとする、不道徳で罪深い町々の方が、「まだ軽い罰で済む」と言われています。つまり神の奇跡が行われても、悔い改め神に立ち帰ろうとしない、ガリラヤの町々の人よりも、ソドムの方がまだましだと、厳しく警告しています。
果たして私達は、どうでしょうか。主イエスが私たちの罪をのために十字架で死んで、三日目に復活し、そして赦し愛される。これほどの愛が、神から示されているにも拘わらず、悔い改めることも無く、神に立ち帰ることも無いならば、一体どんな言葉が、主イエスから語られるでしょうか。
本日の聖書 マタイによる福音書11章3-4節
「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。イエスはお答えになった。行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。」
宣教題「主よ、御言葉をください」 牧師 新保雅雄
バプテスマのヨハネは、今、牢に囚われています。牢の中で主イエスの噂を聞きました。そこで自分の弟子を主イエスに尋ねさせました「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」「来るべき方」とは、キリストのことです
これに対して主イエスは、ヨハネの弟子たちの質問には、直接的には、お答えにならずに、こう言われました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」でした。
それではヨハネの弟子たちは、何を見聞きしたのでしょうか。主イエスは貧しい者たち、人に見下されている者たち、無価値な者たち、迫害されているもの、に語られた福音の言葉と軌跡の癒しです。
ヨハネは、その主イエスの福音の言葉、救いの奇跡を一度も見聞きできなかったのです。自分が捕らえられるまで、主イエスは福音伝道を行われなかったからです。だから今、牢の中で苦しみ、叫んでいるのです。救い主イエスが語る、神の言葉を求めているのです。
そして主イエスは、ご自身が行った奇跡、癒し、語られた福音の数々を語られました。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」この祝福の福音を、今、死に直面しているヨハネに送られたのです。
私たちの人生にも、苦難が押し寄せるときがあります。そんな時に心から主を信頼できているでしょうか。信仰が揺らぐ時がないでしょうか。時として自身の信仰の弱さを思いやられる時があります。そのようなときこそ、キリスト・イエスの御言葉が必要なのです。