本日の聖書 テサロニケの信徒への手紙第一5:18
「わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」
宣教題「愛を身に付ける」 牧師 新保雅雄
今年もアドベント(待降節)を迎えました。アドベントとは「来る」という意味のラテン語です。神の子イエスは、既にこの世に来てくださいました。それが2千年前のクリスマスの出来事です。しかし、この世は主イエスを拒み十字架に付けて殺してしまいました。
しかし 神は、三日目に主イエスを死から復活させられました。そして主イエスは、天に上って行かれました。その姿を見送った弟子たちに天使は、主イエスが再び来られることを告げたのでした。
その日から今日まで2千年間に渡って教会は、主イエスが再び来られる時を待ち続けています。
「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです」9節
神は、私たちの行いが悪くても、私たちを救いにあずからせようとしてくださったのです。 だから神は、主イエスを救い主として、この世にお送りくださったのです。
私たちの罪の身代わりとして、主イエスが死んでくださり、私たちへの神の怒りを取り除かれたのです。
しかしわたし達は、すぐに誘惑に負けてしまいます。世にならってしまいます。だから今、誘惑や世に負けないように戦いの身支度を整えるように言われています。「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んで歩みなさい」
主イエスと共にあることが私たちを罪から守って下さるのです。
「今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」
宣教題「待ち望む喜び」 牧師 新保雅雄
今月末からツリーに火がともり、 アドベント(待降節)を迎える季節になりました。主イエスが、この世にお生まれになったクリスマスの恵みを覚え感謝しつつ、イエス・キリストが来られる時を「ひたすら待ち望む」(4章8節)者でありたいと願います。
テモテへの手紙は、パウロが、自分の後輩の伝道者であるテモテに書き送った手紙です。4章6節以下では、「世を去る時」(6節)、すなわち、この世の死を迎える時を強く意識したパウロが、自分自身のクリスチャン人生の歩みを振り返りつつ、自分に続く伝道者たちを、励ましています。
パウロは、自分自身の歩みについて、こう言っています。「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。」(7、8節)
この時のパウロは、マラソンを走り抜いた選手が表彰式で栄冠を受賞する時を待つような心境でしょう。
こんなパウロであっても、順風満帆にこの時を迎えたのではありません。信仰の道を外れて、神の御心に背くこともありました。ユダヤ教徒であった時には、クリスチャンは神を冒涜しているとし迫害し逮捕し十字架に送りました。
そんなパウロにも、主イエスは望んでくだされ、真の救い主であることを知らされ伝道者とされたのです。今パウロは言います「わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます」 主を待つ喜びをあなたにも・・・
「すべての異邦人よ、主をたたえよ。
すべての民は主を賛美せよ」
宣教題「あなたのために」 牧師 新保雅雄
もうじきクリスマスです。私たちの救い主イエス・キリストの誕生を祝う時です。クリスマスは御子イエスが、私たちのために、お生まれくださったことを、改めて覚える時としたいものです。
せっかくの1年に1回のクリスマスですから、この日を、喜びと平安の中で、静かに迎えたいものです。しかしどうでしょうか。現実の私たちの生活は、救い主をお迎えする喜びと平安に満たされているでしょうか。年末の忙しさや世の煩いが多く、疲れていませんでしょうか。
世の何処に平安があるのでしょうか。国内に目を向けると、経済は、完全に不況を脱したとは、まだまだ言えない状況です。気候変動による異常気象、台風が大型化してあちこちに水害が発生して多数の死者を出す
また、弱い子どもが犠牲になる事件や、隣国との争い。お金をめぐる事件も後を絶ちません。本日のローマの信徒への手紙15章は、神こそ「忍耐と慰めの源」(5節)であり、「希望の源」(13節)であると語ります。
「かつて書かれた事柄」(4節)、すなわち旧約聖書には、イスラエルの人々に対して神がなさった救いの業が記されています。神は、今も生きて働いておられます。しかも、イスラエルの人々だけにでなく、「異邦人」の私たちにも、神は、救いの御手を伸ばしてくださっているのです。
「異邦人」に関する旧約聖書の箇所がいくつか引用されています。ダビデ、モーセ、そして詩編が、異邦人に対しても、「主を賛美し、共に喜べ」と招いています。主イエスは、イスラエル民族だけの救い主としてでなく、この世の全ての人の救い主として、お生まれくださいました。 あなたのために、クリスマスの恵みが、ここにあります。
本日の聖書 マルコによる福音書14章66〜68節
ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来てペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。
宣教題「主を否定する」 牧師 新保雅雄
主イエスが、ゲツセマネで逮捕され、大祭司の屋敷で死刑にするための裁判が、行なわれていました。そこでは、主イエスに不利な偽りの証言がされています。しかし、偽りの証言がされていたのは、大祭司の屋敷の中だけでは、ありません。屋敷の外の中庭でも、偽りの証言がされたのです。
主イエスが捕えられた時、弟子たちは皆、自分達も捕らえられることを恐れて主イエスを見捨てて逃げてしまった。しかし、ペトロだけは、主イエスを見捨てることが出来ず見に行ったのです。
するとそこに仕えの女性が来て「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」と言ったのです。ペトロは「あなたが何のことを言っているのか、分からない」と主イエスとの関係を否定したのです
ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言い放っていたにも関わらず。しかし周りの目を気にして正しさを否定してしまう。
私たちも正しさを知りながら、それを行使することが出来ないことって無いでしょうか? 世の思いに負けてしまう、ペテロの姿がダブります。私たちも、不本意ながら、神に背き、自己保身にはしり、自己中心に物事を考える愚かな裏切り者なのです。
しかし、主イエスは、そんな私たちの罪のために十字架にかかり、復活され、私たちの罪が赦されたことを宣言され、恵みと愛を注いでくださる。もう一度、神に立ち帰るようにと招いて下さいます。この主イエスの招きに答えたいと思います。
本日の聖書 マルコによる福音書14章28節
「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」
宣教題「それぞれのガリラヤ」 牧師 新保雅雄
主イエスは、ユダヤ人指導者に捕らえられ十字架へと、今、引かれようとしています。その時、弟子たちは皆、主イエスに導かれて、ここまで来たにも拘らず、その主イエスを見捨てて逃げ出します。
主イエスは言われる「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」ガリラヤとは、弟子たちにとって、主イエスと初めて出会い、主イエスの導きによって、弟子となった場所です。主イエスと共に、宣教活動を始めた出発点です。そう、弟子たちにとってガリラヤとは、それぞれの信仰の原点なのです。
弟子たちは皆、主イエスを見捨て、信仰を捨て去って逃げていく、しかし主イエスは、復活した後、もう一度、弟子としての出発点ガリラヤで再会し、捨て去った信仰を取り戻そうとされるのです。
弟子たちは皆、「つまずき」を経験しました。皆、主イエスから離れてしまいます。しかし、弟子たちのこの「つまずき」は、主イエスとの関係の終わりではありません。主イエスとの深い関係が、ここから始まるのです。
弟子達は、いざとなると、自分の身を守ろうとして裏切る、情けない者であることを知らされたのです。「命をかけて着いて行く」と言いつつ裏切った弟子に主イエスは「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」 ガリラヤで待っているという約束をされます。裏切った弟子達を迎え入れようとされる。ここに神の愛があります。
ガリラヤは、私たちの信仰の原点、始まりなのです。「主イエスにつまずく」そのことによって、自分をもう一度考え直す時がある。自己保全の為なら、神をも簡単に裏切ってしまう。そんな私達でも神は赦し受け入れて下さる。人生に迷ったとき、あなたのガリラヤに戻ってみて下さい。主イエスがあなたを迎えて下さいます。