本日の聖書 マルコによる福音書15章 43節
「アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである」
宣教題「十字架の中にある愛と正義」 牧師 新保雅雄
ユダヤの議員ヨセフは、主イエスの遺体を渡してくれるように総督ピラトに願い出ました。主イエスが十字架に付けられたのは午前9時、息を引き取ったのは午後3時でした。この日は安息日の前日、金曜日なので、安息日が始まる日没までに墓に葬るためです。
ピラトは、ローマの百人隊長を呼び寄せ、主イエスが本当に死んだか聞きました。この百人隊長は、主イエスが息を引き取られたときにそばで目撃し「本当に、この人は神の子だった」と言った人です。
百人隊長は、主イエスが死んだことを報告しました。ピラトは願いどおり、議員ヨセフに、主イエスの遺体の引きとりを許可しました。百人隊長は、主イエスが息を引き取るまでの一部始終を目撃していました。誰が正義で誰が不正を働いたのか見抜いていたのです。
ヨセフは、主イエスを十字架から降ろし亜麻布で巻きました。それから墓の中に納め、墓の入り口には、石を転がしておきました。弟子達は、主イエスの十字架のときにも、そして遺体を引き取りにも誰も来なかったのです。わずか二人のマリアが見つめていたに過ぎません。死刑になった罪人の仲間と見られたくなかったからです。こうした中で議員ヨセフが、勇気を出して行動したのです。
最高法院(サンフェドリンユダヤ人議会)が、死刑と定めた罪人の遺体を引き取り葬るということは、そこに所属する議員であるヨセフにとって、将来的に不利益になるのです。しかし彼は、それを覚悟の上で決断したのです。主イエスの死にざまが、ヨセフを動かしたのです。 主イエスの十字架の死の中にある神の愛が、正義を求める議員ヨセフの心を動かし、正義を行う勇気を与えたのです。
本日の聖書 マルコによる福音書15章 節
「メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。」
宣教題「あなたの救いの為に生まれ〜」 牧師 新保雅雄
総督ピラトによって、主イエスは十字架に付けられることが決定しました。そして主イエスに対する陰湿な言動が始まったのです。
兵士たちが主イエスを、総督官邸の中に引いて行きました。兵士たちは、主イエスに向かって「ユダヤ人の王、万歳」と言って、主イエスを拝み、棒でたたき、唾を吐きかけるのです。
自身をつける十字架を死刑場まで運ぶことは、死刑囚の勤めです。しかし主イエスは、前夜から続く取調べと鞭打ちによって、十字架をかつげません。そのとき、ちょうど通りかかったシモンに十字架を担がせたのです。こうして主イエスは、午前9時に十字架にかけられました。罪状書きは「ユダヤ人の王」と記されました。
人々の主イエスに対する仕打ちは、とどまる所を知りません。通りがかった人々は「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」。 祭司長、律法学者たちも「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」。 さらに、一緒に十字架に付けられた犯罪者までののしったのです。
主イエスは、十字架に踏み止まられました。決して、十字架から降りて自分を救おうとは、されなかったのです。 この主イエスの姿を、皆さんはどう思われるでしょうか。自身を救う為ではなく。人を救うために世に来られた、ここに主イエスの愛があります。
使徒信条では、この二つの言葉が続けて記されています。「おとめマリアから生まれ」「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」まるで、生まれたと思ったら、すぐに苦しみを受けたかのように思えてくる。
本日の聖書 マルコによる福音書4章40節
イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」
宣教題「人生の荒波」 牧師 新保雅雄
弟子たちは、舟でガリラヤ湖を対岸に漕ぎ出す。その途中で大きな嵐に遭遇する。たとえ、主イエスが共に乗っておられる舟であっても、激しい突風に吹き付けられ、高波が押し寄せてくることがあるのです。
洗礼を受けたから嵐は来ないのでしょうか。残念ながら信仰人生でも順風満帆に過ぎて行くとは限りません。人生の航海において、その半ばまで晴れ渡って、風も無く穏やかに進んでいた。しかし突然、空が曇り嵐になる。自分では、どうにも出来ない力に翻弄され、何も整えることが出来ず、ただ漂っているしか無い状態に置かれることもあるのです。
そんな時「私はクリスチャンだ。洗礼も受けている。なぜこんなにも苦難が襲うのか、神よ」と叫びたくなる。確かに同じ舟に乗っていてくださるイエスが、何もしてくださらないことに苛立つことがあるのです。
まるでこの弟子達の様に、いくら祈っても、主イエスに向かって「わたしがどうなっても良いのですか」と問い詰めたくなることもあるのです
ガリラヤ湖では、確かに、弟子たちは、起き上がった主イエスの一言によって、風が止み、すっかり凪になりました。しかし、時に私たちは、切実なる祈りにも拘わらず、さらに嵐の中に迷い込む経験をするのです。なぜなのでしょうか?
その時、主イエスは、弟子たちに向かって「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と言われました。弟子たちは、主イエスに従っているように見えて、実際には、心から信頼しきっていなかったのです。
舟に乗り漕ぎ出すとは、自分の命を神に献さげ任せることです。自分の手から離し切れなければ、嵐は静まらないのです。信頼することです。主イエスを口先だけで語っても、御言葉をお札のように貼っていても、何の効果もありません。自分の命を主に預けることです。
本日の聖書 コリントの信徒への手紙第二11章29節
「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。」
宣教題「十字架の痛みを知る」 牧師 新保雅雄
この手紙は、パウロが自身の開拓伝道によって開設した、ギリシャのコリントにある教会宛てに出した手紙です。パウロが留守の間に、偽使徒がやってきて異なった教えを語りました。救われる為には、主イエスへの信仰だけでなく、律法厳守も必要だというのです。
十字架によって罪から解放され、自由にされた兄姉が、再び奴隷にされようとしているのです。そして彼らは、神に選ばれた我々ユダヤ人こそ、最も偉いという横柄な態度を取りました。
コリント教会の信徒たちは、パウロの言葉よりも偽使徒の教えを信じようとしていました。そして彼らは、パウロを愚か者としたのです。危機感を抱いたパウロは、この手紙に「今度そちらに行ったら、容赦しません」13:3と書きしるし、彼らに注意と警告を呼びかけています。その中で今日の御言葉が語られています。
パウロにとって、コリント教会の兄弟姉妹が弱っていることは、他人事として見過ごすことが出来ません。兄弟姉妹が弱っているなら、自分自身も同じように、弱らざるを得ない。パウロは、コリントの兄弟姉妹を自分自身と同じであるといわれています。
本来の福音から離れて、つまずいている人のことも、パウロにとっては自分自身の痛みであり、決して他人事ではないのです。気が気で無く、何とかしたいと立ち上がりました。
何故なら、過去パウロ自身も同じように福音を迫害していた者だからです。しかし神の憐れみによって、救われた経験者だから放っておくことが出来ないのです。かつて自分が犯した過ちを、再び兄弟姉妹が繰り返すことの無いように、パウロは神の愛を語り続けました。コリントの兄弟の痛みは、パウロ自身にも同じ痛みなのです。
ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
宣教題「キリストの教会とは」 牧師 新保雅雄
聖霊の降臨によってなされたペトロの説教によって、「三千人ほど」の人々が悔い改め、洗礼を受けて、新しくエルサレム教会の仲間に加えられました。そして本日の聖句は、その後、キリスト教会が、どのような信仰生活を送っていくのか、教会とは何か、が語られています。
「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(42節)。ここに教会とは何か、教会とは何をするところなのか、教会の本質が記されています。
ではこの「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ること」とは、どういうことでしょうか。まず「使徒の教え」とは、私たちでいえば「御言葉と宣教」のことです。主イエスが地上で語られた福音、そして主が行われた恵み、その事実を証人が語る証です。中心は「十字架と復活」という救いの宣教でした。
そして「相互の交わり」とは、この御言葉を中心とした交わりです。そして「パンを裂くこと」、つまり聖餐のことです。そして心を一つにして祈る交わりの中に、主イエスは共にいると約束されました(マタイ18章19、20節)。そこがキリストが隣在される教会です。
教会とは、人間的な関係(肉的)での集まりではありません。それはどこまでもキリストを中心とした交わりなのです。ですからこの交わりは、一人一人が御言葉によって成長していくことなしには成り立ちません。礼拝によって一人一人が、信仰の成長を遂げていく必要があります。