「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」
宣教題「神の目、人の目」 牧師 新保雅雄
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」主イエスは「善い行い」をすることについて、このように言われました。
「善い行い」と言うと、人に親切にするとか、世の中のためになることを行う、ということが思い浮かぶかも知れません。あるいはボランティア活動をすること、人助けだと考えます。
確かに、こうしたことも、「善い行い」だと言えるでしょう。ただ、主イエスの時代のユダヤでは、善行と言えば、「施しと祈りと断食」のことを意味しました。 つまり、善行とは、神を信じる人が、その信仰に基づいて実行すべきこと、信仰の実践を意味したのです。信仰を目で見える形で現すこと、これが善い行い「善行」なのです。
こうした善行は、自分の信仰を人の前で証明する機会なのです。ですから、自分はこんな立派な信仰を持っていると、人に主張し見せること、人目を気にしながら、善い行いを行うということが起こったのです。せっかくの善い行いが自分を誇る為に使われてしまうのです。
そこで、主イエスは、見てもらおうとして、人の前で善行をしないようにと言われたのでした。善い行いは、人に向けてではなく、神に向けて、行われるべきものである。つまり見える人ではなく、見えない神にと言われています。人は誰でも善い人に見られたい願望があります。
本日は、三つの善行の中の「施し」についてです。偽善者たちは、人からほめられることを望んで、会堂や街角で施しをするのです。 偽善者は、本来、目を向けるべき、施しを必要としている、貧しい人から離れ、自分をとりまく回りの人の目に向けられます。そこには、「隣人を愛する」姿は、ありません。施しという行為は、本来、隣人愛から生じる優しい愛の行為である筈です。残念ながら、人は、外面で人を判断します。しかし神は、その人の見えない心の中の思いで判断します。
本日の聖書 マルコによる福音書1章9〜11節
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
水の中から上がるとすぐ、天が裂けて”霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
宣教題「神と人を結ぶ」 牧師 新保雅雄
「イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。」とあります。何故、神の子である主イエスが、ヨハネからバプテスマを受けたのでしょうか。ヨハネの行っていた洗礼とは、罪の赦しを得させるための、悔い改めのバプテスマであったからです。
それでは主イエスは、神の子でありながら、罪を犯し、その罪を赦してもらう必要があったのでしょうか。マルコ福音書1:5に、「ユダヤの全地方から、人々が押し寄せて来て、ヨハネから洗礼を受けた」と記されています。主イエスは、この大勢の人々の中の一人にしか過ぎないかの様な印象を受けます。
確かにそうなのです、主イエスは、大勢の人々の中の一人として洗礼を受けられたのです。
しかし、洗礼を受けられた主イエスが、水の中から上がると、主イエスの上に「天が裂けて、聖霊が鳩の様に降って来た」のです。
これは、今まで罪によって遮られていた天が開き地とつながったことを意味します。主イエスによって天と地がつながったことを意味します。あなたの救いの為に主イエスのバプテスマがあるのです。
罪なき神の子イエスキリストが、罪人と同じくなる為に洗礼を受けられたのです。キリストが洗礼を受けられ、あなたと同じ所に来られ、あなたの受ける十字架の身代わりになって、救うためであったということを知って下さい
本日の聖書 ヨハネによる福音書9章38〜39節
彼が「主よ、信じます」と言って、ひざまづくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
宣教題「神を見る」 牧師 新保雅雄
生まれついての盲人が、主イエスに癒されて目が見えるようになった。そのことを知ったファリサイ派の人が、真意を確かめる為、癒された人に「どうして見えるようになったのか」と尋ねた。彼は、自分が生まれつきの盲人であること、そして癒されたことの一部始終をお証しする
しかしファリサイ派の人々は、信じようとはせず、彼の両親を呼び出し、同じ事を尋ねた。両親は「彼が生まれつきの盲人であることは知っているが、誰が、どうやって息子を癒したのか分かりません。これ以上のことは、直接本人に聞いてください。」と言ってお証ししなかった。両親は、ユダヤ人社会からの締め出しを恐れていたからである。
ファリサイ派の人々は、再度、癒された盲人を尋問した。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が、罪ある人間だと知っているのだ」と圧力をかける。しかし彼は、ファリサイ派の圧力に屈しない。前回以上に「あの方が、神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」と力強く主イエスをお証しした。
ファリサイ派の人々は「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い彼を外に追い出した。結果的に彼は、ユダ人社会から罪人として追放されていく。しかし彼は、真実を語ることによって、神が見え、神と出会うのです。
社会の中で、主イエスをお証しする生活をおくる時、社会は、あなたを受け入れないかもしれない。その証しのために不利益をこうむったとしたら、それはイエス・キリストに、より近づいたことになるのです。
あなたにイエス・キリストは言われる。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
祝 クリスマス
Merry
Christmas
本日の聖書 ルカによる福音2章6〜7節
「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み。布にくるんで飼い葉桶に寝かした。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」
宣教題「主をお迎えする準備は」 牧師 新保雅雄
救い主イエス・キリストは、飼い葉桶の中にお生まれになりました。飼い葉桶とは、家畜のえさ箱のことです。くさく、寒く、不潔な場所です。決して、生まれたばかりの赤ん坊にとって、祝福を受ける場所ではありません。
神の子なら豪華な神殿で、やわらかい高級な布団に包まれて生まれる。しかし、御子イエス・キリストは、飼い葉桶の中に生まれた。なぜなら「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったから」です。
当時、ユダヤの人々は、住民登録をせよというローマ皇帝の命令によって、それぞれ自分の属する町へ帰って行きました。マリアも夫のヨセフと共に、ベツレヘムの町へ向かったのです。
今日、私たちは、御子イエスのお生まれになる場所を、用意しているでしょうか。私達は、あまりにも世のことに心とられ、自分のことだけで精いっぱいで、神の恵みさえも見えなくなっている。
2千年前のクリスマスも「マリアたちの泊まる場所がなかった」 どうか今宵、静かなイブの中で改めて自分自身を省みてください。
祝 クリスマス イブ
Merry Christmas
本日の聖書 ルカによる福音18章15〜18節
宣教題「神の御子イエス」 黒瀬 博 牧師
イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。
しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。