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新住所
板橋区仲町23−17
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090-8801-0111
(新保牧師携帯)
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投稿者 : church 投稿日時: 2020-02-22 23:46:00 (587 ヒット)

 本日の聖書 マタイによる福音書7章7節

「求めなさい。そうすれば、与えられる。

探しなさい。そうすれば、見つかる。

門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」

宣教題「あきらめないで!」 牧師 新保雅雄

主イエスは、「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい。」と言われています。

 これは、神からの約束の言葉です。神の約束を、主イエスが教えてくださっているのです。それは、「だれでも、求める人は、受け取ることが出来るし、探す人は、見つけられる。門をたたく人には扉が開かれる」という約束です。

ここで「だれでも」という言葉に注意して下さい!

時々、私たちは、「どうせ自分なんか駄目だ、神さまも、こんな私になんか、何もくださらないに決まっている。祈っても祈っても何にも変わらない。何もいいことがない。」と思ったり、「もうどうでもいいや、やってられない。」と思い投げやりになる事が、あるかも知れません。

あともう少し門をたたき続ければ、扉が開かれるのかも知れません。でも、この「あともう少し」が、なかなか続かないのです。

子どもが、お腹が空いてパンを欲しがっているのに、わざと石を与える親は、いません。また、子どもが、魚を欲しがっているのに、わざと蛇を与える親もいないでしょう。

同じように、天の父である神さまは、自分に向かって祈り求める私たちに対して、良い物をくださるに違い無いと、主イエスは、言われるのです。何故なら、私たちは、みんな神の大切な子どもだからです。

ここに集まっている、皆さんみんな、神の子どもなのです。それで、私たちは、神の家族なのです。 神が私たちを子どもとして、愛してくださっているので、神は、祈り求める私たちに、良い物をくださらないはずはないのです。どうかあきらめないで、たたき続けて下さい!


投稿者 : church 投稿日時: 2020-02-15 23:23:02 (577 ヒット)

 本日の聖書 マタイによる福音書7章3節

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」

宣教題「自分の目の中の丸太」 牧師 新保雅雄

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」 7:1  私たちは、ともすると、自分のことは棚に上げて、人に対して、あれこれ注文を付けたり、批判したりしがちです。我が身を省みないで、人への攻撃を強め裁いてしまうことがあります。

あるいは、相手が立ち直れないほどに、キツイ言葉を浴びせ掛け、傷付けてしまうことさえあります。また今にも噛み付きそうな態度を取ることもあるのです。忙しいとき、嫌なことがあったときには、特に、相手のちょっとした言葉や態度に、イライラしたり、ムカムカして、相手との関係を崩してしまうほど、相手に攻撃的になることもあるのです。

ところが、そんな私たちに向かって、主イエスは、こう言われました「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」7:3 主イエスは、このように、自らを省みることなく、人を裁くことばかりに熱心な者に対して、「偽善者よ」と呼び掛けています。

この丸太は、自らの過ち、欠け、罪の象徴です。しかし、悲しいことに、私たちは、目に突き刺さっている丸太が象徴する、自らの過ち、欠け、罪に、なかなか自分では気が付かないのです。

そのくせ人の目の中の小さなおが屑には、遠くからでも気が付くのです。正に人に厳しく自分に甘い姿が、ここにあるのです。理想的には、自分に厳しく、人には寛容で大らかな態度を取ることでしょう。そうは行かなくとも、少なくとも、相手に対する厳しさと同じ程度には、自分にも厳しくなければ、バランスを欠くでしょう。

本日の聖句は、いつも心に留めておきたいものです。裁くのは、あなたではなく神です。人を裁く時、自身が神になっていませんか?


投稿者 : church 投稿日時: 2020-02-08 23:28:31 (573 ヒット)

 本日の聖書 マタイによる福音書6章19節

「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。」

宣教題「富のあるところに心もある」 牧師 新保雅雄

本日のメッセージ テーマは、富についてです。富に対する思いを見るとき、その人の人間性が、露骨に現れます。お金や財産など、興味が無いように見える人でも、お金や財産が舞い込むと、清廉潔白であり続けることが出来ないのではないでしょうか。

それまで経済的に苦しい生活をしていた人でも、大切なお金や財産が「飲む、打つ、買う」に散財されてしまう。そんな人を何人も見て来ました。それがクリスチャンならば、なおさら残念なことです。

富について、主イエスは、二つのことをお教えになりました。一つ目は、富を地上ではなく、天に積むようにということです。

 なぜなら地上に積んだ富は、虫が食ったり、さび付いたりして、価値が失われる、また泥棒に盗まれる危険もあるというのです。

現代社会においては、富、財産を守ろうとしても、思わぬ出来事、想定外の事件に巻き込まれて、あっけ無く、富、財産を失うことも有り得るのです。また欲望に襲われ食べられてしまうこともあります。

これに対して、天に積んだ富は、虫が食うことも、さび付くことも、盗まれることも無いと言うのです。天に積んだ富とは、既に、神の御手の中にあるからです。この天にこそ、富を積むようにと主イエスは言われます。天にこそ、心を向け、ここに富を積むようにと言われるのです。

今日の糧は、天よりの恵みである。生かされていることに感謝。これこそ天に富を積むことになるではないでしょうか。富が感謝になる。

大切なことは、心を天に、神に向けて生きることです。富とは、何も金銀財宝だけではありません。あなたが大切に汗水たらして手に入れたものです。主イエスは「私たちの富のあるところに、私たちの心もある」と言われました。あなたの富は、何ですか、そしてどこにありますか?


投稿者 : church 投稿日時: 2020-02-01 22:46:11 (653 ヒット)

 本日の聖書 マタイによる福音書6章16節

「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする」

宣教題「断食」      牧師 新保雅雄

主イエスの時代、断食は、施し、祈りと共に、信仰生活において欠かすことのできない、大切なものでした。断食は、食事を断つことによって、神に思いを集中することです。

このように本来、断食とは、「何を食べようか」、と思い煩うことなく、神に心を向けるために行なわれてきました。ところが、いかにも、「自分は断食しています」、「苦しいけれども頑張っています」と、自分の信仰を誇らしげに見せるような、わざとらしい断食がされました。

実際は、それほど苦しくも無いのに、人の注目を集めようと、わざと、大げさに見せかける断食です。 主イエスは、こうした見せかけの、「断食」に、「彼らは既に報いを受けている」と言われます。

既に、主イエスは、人に見せびらかす施しや、人に見せびらかす祈りを戒められました。そして、ここでは、人に見せびらかす断食を戒められたのです。神に対してされる信仰が、人に対してされてしまうのです。

主イエスは、断食する時には、頭に油をつけ、顔を洗いなさいと言われました。つまり、たとえ断食する時にも、普段どおりの、さり気ない格好で行いなさいと言われるのです。

そして本当に苦しい時、本当に辛い時には、顔つきや格好を気にする必要はありません。沈んだ顔つきのままで、見苦しい顔のままで、髪振り乱したままでも、着の身着のままで神に助けを求めて良いのです。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」9:12と主イエスは言われています。救急車で病院に運ばれる時に、着替えたり、化粧する必要はありません。神に助けを求める時にも同じです。信仰は人に見せ人が評価するのではなく。信仰とは、神の恵みなのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2020-01-25 22:27:14 (567 ヒット)

 本日の聖書 マタイによる福音書6章9節

「天におられるわたしたちの父よ、

御名が崇められますように」

宣教題「父よ」 牧師 新保雅雄

主の祈りは、主イエスが弟子たちに教えられた祈りです。主イエスご自身が祈り、また、弟子たちにもこように祈りなさいと教えてくださった祈りです。以来、約2千年に渡りキリスト教会は、繰り返しこの主の祈りを祈り続けてきました。時代を超え、場所を超え、宗派を超え、同じ祈りを祈り続けて来ました。

この主の祈りは、神への呼び掛けと、それに続く6つの祈りから成っています。まず、神に対して「天におられる、わたしたちの父よ」と呼び掛けています。神に向かって、親しく「父よ」と呼び掛けることから始まるのです。つまり祈りは父と子の対話なのです。

そして「私たちの父よ」と呼び掛けるのです。つまり神は、自分一人の神でなく、「わたしたちの神」として呼び掛け祈るのです。つまり自分だけではなく、人のことを人と共に祈ることの大切さを言われています。 教会は常に兄弟姉妹の群れであるということです。

この呼び掛けに続いて、始めの3つの祈りは、神ご自身に対しての祈りです。そして、後の3つの祈りは、「わたしたち」に対しての祈りです。この順番が大切です。

ともすると私たちは、自分の祈り願いにばかり、思いが向きがちになります。自分のことばかり、神に言い立てたくなるのです。まず祈りにおいて大切なことは、祈られるべきは神であり、神に思いを向けることで、祈りが神との会話となるのです。

後半の3つの祈りは、「わたしたち」についての祈りです。「わたしたち」と祈る時に、どの範囲の「わたしたち」を思い浮かべることが出来るかが問われます。主の祈りが、私たちの親しい者だけなのか、あるいは世界のすべての人たちについてなのか?


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