本日の聖書 マタイによる福音書18章1,4節
そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。(イエスは言われた)「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」
宣教題「誰が一番偉いのか」 牧師 新保雅雄
この世には、絶えず順位というものがあります。例えば学校では成績による順位がある。会社では売上が競われ順位がつく。そして出世につながる。勝ち組である。弟子たちが主イエスに尋ねました。「だれが天の国でいちばん偉いのでしょうか」弟子たちは、弟子の中での自分の順位が気になったのでしょう。彼らは世の中の勝ち負けが、天の国でもあると思ったのでしょう。自分の順位は?
誰が偉いのか。この「偉い」という言葉は、人と人を比べたときに使う言葉です。つまり、「偉い」人がいて、「偉くない」人がいる。そして人は自分の位置を知るために他人と比べる。「あの人よりは、自分の方が上だ」そして安心する。世は正に競走社会である。
主イエスの時代、ファリサイ派、サドカイ派という宗教指導者が、偉いとされました。律法を厳格に守る。更に事細かく宗教規則を作り、それを守ってみせる。週に2度断食し、神に献げものをする。貧しい人々への施しも忘れない。「あの先生は、なんと立派な人なんだろう」と世の人から称賛を浴びることになる。
まさにこの世は、人間を順位付けし、高い低いと評価する。善し悪しを問う。そして少しでも自分を高いところに置きたいと競い合う。世での競争に勝利したものは勝ち組として「世から賞賛」される。では落ちこぼれた者は、どうするのか? 自分の弱さを神様に心から祈るだろう。そこに「神からの恵である信仰」が生まれる。
弟子たちも、まさにそういうこの世の価値観、競走にとらわれていたということが分かります。すなわち教会も同じく、誰が偉いとか偉くないとか、そのように人を比べてしまう過ちに、おちいる危険があるということです。主イエスは言われます、「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」
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