本日の聖書 マルコによる福音書15章29節〜41節
「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。」(39節)
宣教題 「本当に、この人は神の子だった」 北村紀一
十字架に架けられたイエス様を見ていた百人隊長が、イエス様の“何に”感動して「この人は、本当に神の子だった」と告白したのでしょうか。
彼はこの十字架のイエス様をずっと見ていた人でした。イエス様が裁判を受けて死刑の判決を受けるときに、イエス様と人々の間で、暴動が起こらないように見張りながら、十字架を担がせたのを見ていた人でした。イエス様をいよいよ十字架につけるとき、釘で指すことを指示した人です。十字架刑を執行し、きちんとイエス様を殺さなければいけない、その責任を負っていたのです。つまり、イエス様の十字架をはじめから終わりまでずっと見続けた人でした。
そして、人々に侮辱され、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言って死んでいったイエス様の姿を見て、「本当に、この人は神の子だった」と言ったのです。
祭司長や律法学者たちは、十字架から降りて自分を救うことができたら、信じてやろう(32節)とののしりました。十字架から降りるという奇跡を見せたら、つまり神さまがお前を助けたという“しるし”を見たら、お前が何の苦しみも悲惨もない、神に救われた姿を見たら、「神の子」と信じてやろうというのです。
けれども、百人隊長は、苦しみも悲惨もない神様の救いを受けているから、イエス様を「神の子」と感じたのではありません。十字架という、これ以上ない苦しみと悲惨の中に置かれて、心の声を代弁され、それでもなお、神さまを信頼して、勇気と希望を失わない信仰に、救いを見いだす姿に感動して、「神の子」と告白したのです。イエス様の姿を通して神様との距離がなくなったように感じたのです。
神様は、何の苦しみも、悲惨も知らない方ではなく、痛みも悲しみも病も知っておられるのです。一緒にいて同じ思いを味わってくださる御方です。イエス様の十字架を通して、私たちは、神様との間にあった隔たりが取り除かれたのです。
イエス様が私たちのように、人生で味わう苦しみ、悲惨、その気持ちを味わわれたからこそ、私たちの苦しみと気持ちを分かってくださり、支えてくださるので、そこから救い出してくださると信じることができるのです。
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