2024.5.5きんたメール第918号。※きんたメールとは、板橋教会の週報をメールで送っている際に添えている板橋教会ホームページ担当のきんた(北村)の独り言です。
『大事なことに気づく・・・』〜それが大事〜
敬愛する皆さま、いつも、ありがとうございます。子どもの日であり行楽日和ですね。いかがお過ごしでしょうか。わたしは職場のウォーキング大会期間なのでたくさん歩きました。朝早くから歩くのにちょうどいい気候です。土手では人馴れしたカルガモさんがよって来ます。ほんわかをいただきました。すべてをご存知の主がお一人ひとりの健康を守ってくださいますように。わたしたちに十字架の愛を示してくださいますことに感謝いたします。
さて、みなさんにとって神さまはどのような御方だとイメージをお持ちでしょうか。閻魔大王みたいな神さまでしょうか。または悪いことしたらバツを与えるなど「恐れ」で操作される神さまでしょうか。
たとえば、あなたの大切さお子様にはどのように接するでしょうか、恐れで言うことを聞かせようとしますか。やりたい放題何でも子どもの言うことを聞こうとしますか。それとも子どもの気持ちに寄り添いながら正しく判断できる心のある人になってほしいと愛を持って向き合っていきますか。
わたしたちは、自分がそうしたいと思うように、神さまのイメージを持つのかも知れないですね。またわたしたちの姿勢から確認できるのはわたしも含めて自分の都合の良いように操作したいと言う思いが強いのかも知れないです。
でも実際に神さまを操作することはできないですよね。なぜならば人が作った像が神さまではなく、神さまがすべてをお創りになられているからです。
だから恐れを持ってしまうのかも知れません。しかし神さまにとってわたしたちはそれぞれ大切な存在なのです。神さまの愛が溢れんばかりに込められているからです。だからソロモンが「恐れ」ではなく「畏れ」ることが知恵のはじめだと言われています。畏れるとは、神さまを神さまとして理解することです。神さまはすべての創造主なのです。水も空気も植物も動物も愛も知恵も。神さまとの関係に生きることもです。
そして神さまはどんな御方なのか。聖書のルカによる福音書15章11〜32に放蕩息子のお話しがあります。このお話しから神さまがどのような御方がわかりやすいです。
ある息子がお父さんから相続財産を生前贈与して自分の分を受け取ると、今までお父さんが一緒の家から遠く離れて好き勝手に生活しました。
お金がある内は友だちもいて楽しかったのですが、なくなると友だちも相手にしてくれません。社会からも相手にされません。食べるものもなく、みじめな思いでいっぱいになります。自分と言う価値は、今持っているものに主体があるみたいな社会の風潮がわかります。
でも本当の価値はそうではないですよね。神さまは、その人の存在そのものに目が向いています。彼は自分の愚かさに気づきます。お父さんのところにいた時はすごく恵みに満たされていたことに気づいたのです。お父さんは、持っているものではなく、1人の大切な存在として愛してくれたからです。安心の居場所ですよね。
しかもお父さんは、放蕩の限りを尽くした息子を責めたり、バツを与えるのではなく、本当に大事なことに気づいた息子を喜ばれるのです。大事なことに気づいた時、わたしたちは悔い改めて感謝と謙遜を知るからです。
わたしたちもそれぞれ放蕩息子、放蕩娘ではないでしょうか。天のお父さんの大きな犠牲(十字架の愛と復活)によって、わたしたちが神さまの愛に気づいた時、わたしたちは本当に安心の居場所である天国に招かれているのです。主が共にいてくださいますことはすごいことなのです。以下、ルカ15:11〜24を読んでみましょう。このような自分でも愛してくださいます神さまの愛に感謝いたします。
「イエスはもっとよく説明しようと、また別のたとえも話されました。「ある人に息子が二人いました。 ある日、弟のほうが出し抜けに、『お父さん。あなたが亡くなってからでなく、今すぐ財産の分け前がほしいんです』と言いだしたのです。それで父親は、二人にそれぞれ財産を分けてやりました。 もらう物をもらうと、何日もたたないうちに、弟は荷物をまとめ、遠い国に旅立ちました。そこで放蕩に明け暮れ、財産を使い果たしてしまいました。 一文なしになった時、その国に大ききんが起こり、食べる物にも事欠くようになりました。 それで彼は、その国のある人のもとで、畑で豚を飼う仕事をもらいました。 あまりのひもじさに、豚のえさのいなご豆さえ食べたいほどでしたが、だれも食べる物をくれません。 こんな毎日を送るうち、彼もやっと目が覚めました。『お父さんの家なら雇い人にだって、あり余るほど食べ物があるだろうに。なのに自分は、なんてみじめなんだ。こんな所で飢え死にしかけている。 そうだ、家に帰ろう。帰って、お父さんに頼もう。「お父さん。すみませんでした。神様にもお父さんにも、罪を犯してしまいました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。どうか、雇い人として使ってください。」』 決心がつくと、彼は父親のもとに帰って行きました。ところが、家まではまだ遠く離れていたというのに、父親は息子の姿をいち早く見つけたのです。『あれが帰って来た。かわいそうに、あんなみすぼらしいなりで。』こう思うと、じっと待ってなどいられません。走り寄って抱きしめ、口づけしました。 『お父さん。すみませんでした。ぼくは、神様にもお父さんにも、罪を犯してしまいました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 ところが父親は、使用人たちにこう言いつけたのです。『さあ、何をぼやぼやしている。一番良い服を出して、この子に着せてやりなさい。宝石のついた指輪も、くつもだ。 それから肥えた子牛を料理して、盛大な祝宴の用意をしなさい。 死んだものとあきらめていた息子が生き返り、行方の知れなかった息子が帰って来たのだから。』こうして祝宴が始まりました。」ルカの福音書 15:11-24 JCB https://bible.com/bible/83/luk.15.11-24.JCB
ぜひ、ご一緒に教会で神さまの「愛」と「知恵」を確認しましょう。あなたは愛されるために生まれた人です。私たちは不完全な者ですが、不完全ゆえに赦し合い、助け合いながら、神さまの愛に生きる人として成長していきたいものです。いつも主にこそ目を向けていく恵みで満たされますように。そのために十字架の愛を忘れることがないように助けて導いてください。
どんなときも主が共にいてくださる人生は「新しい力」を受けます。よき理解者が「一緒にいるだけ」で人は「命」を得ます。ぜひお近くの教会(十字架が目印)へご連絡ください。一緒に祈りましょう。あなたの上に主の祝福が豊かに注がれますように。主が共にいてくださいますように。
ご意見・ご要望は北村までお寄せください。今週も皆さまの上に主の祝福と平安が豊かにありますように。栄光在主
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