2018.2.25きんたメール第597号。※きんたメールとは、板橋教会の週報をメールで送っている際に添えている板橋教会ホームページ担当のきんた(北村)の独り言です。
「へりくだるという選択・・・」〜不自由から自由へ〜
敬愛する皆様、いつも、ありがとうございます。あなたの愛するお一人ひとりの上に、特に自分は愛されていないのではないかと思い、孤独の中にいますお一人ひとりの上に、いつも「主の愛」と「平安」で満たしてくださいますように。何より「十字架の愛」を与えてくださいました主を忘れることがないように、「感謝する心」と「正しく判断する知恵」と「誠実な姿勢」を求めていくことができますようにいつも導いてください。今日も1日主が共にいてくださいますように。
さて、私たちは自分ではどうにもならないほど弱っている時、その時の気持ちに共感してもらえると癒されます。しかし、見下されたり、心ない言葉によって、さらに傷つくこともあります。
「心」があるかないか、「いのち」があるかないかで、癒されもするし、傷つくこともあるのではないでしょうか。受け止めて共感してくれるところに「心」や「いのち」を感じるのです。そこに働かれている主を見るのです。
人と人の間にある隔たりを自由に超える「いのち」の源は「十字架の愛」以外にありません。「へりくだる」ことなしに「愛する」ことはできないからです。
自分を高めようとしたくなるのは、自己防衛本能がそうさせるのですが、反面いつも不安であるということをアピールしているようなことです。それだけに囚われてしまうとむしろ不自由になってしまいます。
わたしも自分中心の牢獄にいる一人ですが、そのような自分中心の牢獄から救い出してくださる主によって、へりくだる自由さを学び続けることができるのです。なぜなら神さまの愛によって見える世界が変わり、不自由から自由にされるからです。弱さがなくなるわけではありませんので、弱さに対しても受け入れていく器が拡げられますし、すばらしい宝ものを見つけることができるのです。
「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」フィリピ2:3〜8
十字架の愛が私たちの心の土台となるように。そのためにいつも、覚えて過ごすことができますように。特にイースターの時まで主の受難を覚えてまいりましょう。
どんなときも主が共にいてくださる人生は「新しい力」を受けます。よき理解者が「一緒にいるだけ」で人は「命」を得ます。ぜひお近くの教会(十字架が目印)へお越しください。一緒に祈りましょう。あなたの上に主の祝福が豊かにありますように。主が共にいてくださいますように。
【板橋教会】・・・今週は礼拝前に子ども会、礼拝後に交わりの時をもちます。どうぞ、お越しください。
祈り:のだ姉の歩みの上にいつも主が共にいてくださり主の平安が共にありますように。またあかや兄の歩みを祝福してください。なかじま兄の健康が護られますように。新保牧師、つのえ兄、なかや兄、なかがわ姉、なかじま兄、たつみ兄、よこやま姉、みやもと姉の健康が護られますように。子供たちの上に主が共にいてください。あしや兄、たなか兄の働きを祝してください。もり兄、ふじむら姉の歩みの上に、祝福が豊かにありますように。常盤台教会の上に、母教会である東京西教会の上に祝福が豊かにありますように。
それぞれのすべてをご存じの主が必要を与えてくださいますことを感謝します。祈りの課題がありましたら、お知らせください。一緒にお祈りします。
ご意見・ご要望は北村までお寄せください。今週も皆さまの上に主の祝福と平安が豊かにありますように。栄光在主
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