憐れみ・・・

投稿日時 2016-05-29 08:03:41 | カテゴリ: ニュースレター

2016.5.29きんたメール第506号。※きんたメールとは、板橋教会の週報をメールで送っている際に添えている板橋教会ホームページ担当のきんた(北村)の独り言です。

「憐れみ・・・」

  敬愛する皆様、いつも、ありがとうございます。5月の月日が護られましたことに心から感謝します。熊本・大分、エクアドルの地震で被災されたお一人一人の上に主の癒しと平安が豊かに注がれますように。復旧が速やかに行われますように。引き続き覚えてお祈りください。

  さて、私は手洗いとうがいを心がけていたのですが、先週の後半、どこかでもらったようで、風邪を引いてしまいました。食欲もあり元気なのですが、鼻水と咳が出ますので、周りの人にうつさないように薬を飲んでマスクを着用しています。こうして病気になった時は以下の聖句を思い出します。

  イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」マタイ9:12〜13

  健康な人は医者を求めません。医者を本当に必要とするのは病人だと言われます。自分は正しい、自分は強いと思っている人も同じように、「わたし」を必要としない。わたしを必要とするのは、神さまの前に自分を罪人であると認め、自分の弱さ、醜さを認めている人たちだと言われています。

  私の中には、強い劣等感があります。だから、自分が無価値に思えてしまうことがあります。自分は生きていてよいのだろうかと考えることもあります。反面、劣等感が強い分、思い上がりをしてしまう場合もあるのです。ですから、自分のそういった醜い姿をしっかり認める必要があります。本当にどうしようもない者にも関わらず、憐れんでくださる主に感謝します。

  自分こそが、醜いものであることを知らないと、私たちは弱っている人に対して、「憐れみ」よりも「いけにえ」にしてしまう弱さを持っています。

  では「憐れみ」とはどんなことでしょうか。「好き」というよりも、「かわいそう」というイメージでしょうか。「好き」は自分にとって価値あるものですが、「かわいそう」と言うとき、それは相手の価値には関係ないものです。むしろ価値がないものだからこそ「憐れ」に思う時、そこに自分の姿と重ねて、イエスさまが憐れんでくださったことを思い出すように求められているのではないでしょうか。私たちには価値がないように見えても、神さまの目から見ると尊い存在なのです。しっかり覚えたいものです。

 「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」マタイ5:7

  どんなときも主が共にいてくださる人生は「新しい力」を受けます。よき理解者が「一緒にいるだけ」で人は「命」を得ます。ぜひ教会へお越しください。一緒に祈りましょう。あなたの上に主の祝福が豊かにありますように。主が共にいてくださいますように。

【板橋教会】・・・本日は礼拝前に子ども会、聖書教育があります。礼拝後は交わり時があります。東京西教会(母教会)のお一人ひとりの上に主の祝福が豊かにありますように。新保牧師、つのえ兄、わたなべ兄、なかや兄、なかがわ姉、なかじま兄、たつみ兄、よこやま姉、みやもと姉の健康が護られますように。子供たちの上に主が共にいてください。あしや兄、たなか兄の働きを祝してください。もり兄、ふじむら姉の歩みの上に、祝福が豊かにありますように。あらた兄の上に主の平安が共にありますように。それぞれのすべてをご存じの主が必要を与えてくださいますことを感謝します。祈りの課題がありましたら、お知らせください。一緒にお祈りします。  

  ご意見・ご要望は北村までお寄せください。今週も皆さまの上に主の祝福と平安が豊かにありますように。特に被災地の方々の上に主の癒しと慰めが、救援にあたっている方々の働きの上に主の支えが豊かにありますように祈ります。栄光在主






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