2015.5.17きんたメール第452号。※きんたメールとは、板橋教会の週報をメールで送っている際に添えている板橋教会ホームページ担当のきんた(北村)の独り言です。
「『聴す』、何てよむの?・・・」
敬愛する皆様、福岡からです。いつも、ありがとうございます。季節の変わり目です。寒暖の差もありますので、どうぞ、ご自愛くださいますように。次週はペンテコステです。皆さまの上に主の祝福が豊かにありますように。
さて、私は「聴く」ことを通してイエスさまをお伝えしたいという使命が与えられて、気が付けば20年、電話で聴くことを続けさせていただくことができました。聞くことは簡単でも、聴くことは難しいので、失敗を繰り返してはいますが、こらからも学び続けながら、出来る限り継続して聴く人を目指していきたいと願っています。
そのために定期的に研修を受けています。先週は13日の水曜日の夜、「いっしょにやる、ということ」をテーマに研修に参加させていただきました。その研修の最初に「聴す」この読み方を知っていますか。ということからスタートしました。
「傾聴」の「聴」に「く」は、「きく」と言うことはわかります。しかし、「聴す」をなんて読むのでしょうか、もちろん、「きす」でも、「ちょうす」でもありません。「傾聴」の土台になるものです。
答えは、「聴す」(ゆるす)です。
これは、その人の性格や考え方や成果や見た目ではなく、存在そのものを受け容れることになります。
だから、口を紡ぐ時、こんなこと言ったら、怒られるとか、許されないと思うから言うことができなくなりますし、人の話を聞こうとしない時は、許せない、許していないということにもなります。
「聴す」(ゆるす)の本質は、相手の存在そのものを肯定することです。土台には、イエスさまの十字架の愛があるのです。聴いてもらうことで、心に抱えている重い荷物がおろせるのです。
だから、私の場合は、イエス様に聴いてもらい、救われたからこそ、同じように聴くことを通してイエスさまの愛を伝えたいのです。それでも、聴けないときもあります。失敗を繰り返しながら気付くのは、聴くことが適ったときは、自分の力ではなく、神様から与えられている恵みであるということです。だから、聴く前にイエス様が聴いてくださいと祈ります。そんなわけで「聴く」ことに関心をもつ人が増えますようにと心から祈ります。
「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。」ヤコブの手紙1:19
どんなときも主が共にいてくださる人生は「新しい力」を受けます。よき理解者が「一緒にいるだけ」で人は力を得ます。ペンテコステに向けて、ぜひ、教会にお越しください。あなたの上に主の祝福が豊かにありますように。
【板橋教会】・・・本日は、2015年19回目の礼拝です。今週は礼拝前に子ども会、聖書教育、礼拝後に分かち合いの時があります。礼拝と交わりが祝されますように。辰巳兄の上に主の慰めと癒しが豊かにありますように。新保牧師はリハビリ継続中です。またわたなべ兄は状態が不安定で入退院を繰り返されている状況です。引き続き、主の御手がふれてくださり完全に癒されますように覚えてお祈りください。またふじむら姉の歩みの上に、いつも主が共にいてくださいますように。祝福が豊かにありますように。なかじま兄の北海道での生活が祝されますように。故松田兄のご家族の上に主の祝福が豊かにありますように。つのえ兄、なかや兄、なかがわ姉、よこやま姉、みやもと姉の健康が護られますように。あらた兄の上に主の平安が共にありますように。それぞれのすべてをご存じの主が必要を与えてくださいますことを感謝します。祈りの課題がありましたら、お知らせください。一緒にお祈りします。
ご意見・ご要望は北村までお寄せください。今週も皆さまの上に主の祝福と平安が豊かにありますように。特に被災地の方々の上に主の癒しと慰めが、救援にあたっている方々の働きの上に主の支えが豊かにありますように祈ります。栄光在主
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