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投稿者 : church 投稿日時: 2014-10-12 07:01:41 (1078 ヒット)

本日の聖書  イザヤ書1章10〜20節(中心15〜20)

「お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ、善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる。お前たちが進んで従うなら/大地の実りを食べることができる。かたくなに背くなら、剣の餌食になる。主の口がこう宣言される。」

宣教題「論じ合おうではないか」     北村紀一 

礼拝と献金を守っている人々に対して、罪を悔い改めずに、いくらお前たちが手を広げて祈っても私は目を覆う。決して聞かない。と主は言われます。

これは、罪を悔い改めないままで、礼拝を守っても、いくら献金をしても、主は喜ばれないということです。聖書は「聞き従うことはいけにえにまさる」と言われるように、意地を張ったり、意味のない頑固を貫くよりも、まず悔い改めることが必要なのです。悔い改めることは聞き従うことだからです。

しっかり現実に向き合って、本当に必要なことに耳を傾けるようにと主は求めておられます。耳を傾けると対話がはじまるからです。

ここで主は、「論じ合おうではないか」と言われます。この「論じ合おう」という言葉は法廷用語なので、裁判のときに使われる言葉ですが、注目したいのは、神様は判決を下す裁判官としてではなく、裁判席から被告席まで降りてきて、問題解決の糸口を一緒に見つけ出そうとしておられるということです。その解決のために差し出された提案は、18節に言われるように、すごい恵みであり驚くべきことでした。それは「人間の罪がどれほど深くても、もし悔い改めるなら、神は雪のように白く、あるいは羊の毛のように白くしてくださる」ということです。希望と救いがあるのです。

だから聖書は「悔い改めて、神様に聞き従いましょう」と伝えるのです。

聞くことは知恵のはじめ、主の十字架を知り、心の土台に据えて私たちが「信仰」に生きるためです。信仰とは、教会に来ているときも教会以外の場所であっても、私たちが神様を恐れ、心から神様を信じて、みことばに従って生きようとすることです。「できる」「できない」ではありません。神さまに心を向けて、みことばに生きよう、そうしようとする心です。それを神さまは求めて「論じ合おうではないか」と言われているのです。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2014-10-05 00:10:52 (1137 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書25章35〜40  

お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

宣教題 「最も小さき者」      牧師 新保雅雄

今朝の聖書は、二人の人が出てきます。このことを主は「羊と山羊」として審判のとき右と左、つまり「永遠の罰と永遠の命」へと分けられる。と言われています。それではその条件は何でしょうか?

主は言われる。「わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」

それに対して一人は、「わたしは何のお世話もしていません」と答える。しかし主イエスは「あなたは永遠の命の御国へ入りなさい」と言われる。

もう一人は「わたしはお世話をしたではありませんか」と答える。しかし主イエスは「永遠の罰を受けなさい」と言われる。

「私は良いことをたくさんしてきた。困っている人も助けてきた。だから当然永遠の命を受ける者だ」と思ったとき、それは後者の裁きを受ける側になるでしょう。

私たちは、信仰が弱く何もできなかった。そんな自分を悔いる。しかし、私たちの廻りに弱く小さい者がいないだろうか。そこに天の入り口があるのです。世から捨てられた十字架のキリストです。


投稿者 : church 投稿日時: 2014-09-28 06:32:50 (979 ヒット)


本日の聖書 マタイによる福音書25章14〜19節  

「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。

宣教題 「用いて増える神の賜物」   牧師 新保雅雄

私たちが、主イエスからいただいているタラントン。英語で「タレント」です。一般的に「才能」という意味に使われています。勉学の才能、音楽の才能、スポーツの才能、仕事の才能などがあります。 

自身の努力でいろいろな才能が備わります。しかしここではそういう才能も努力も、また神から頂いた恵みであり、神の賜物なのです。

そして重要なのは、いただく賜物が多いか少ないか、ということではなく、与えられた賜物を使って商売したのかどうかということ、つまりそれをどのように用いたのかどうかが問われています。

このたとえ話の中で注目することは、主人から預かったものを使ったけれども損をした人が、いないことです。使ったが、使ったタラントンを必ず倍に増やしている。もうけているのです。

神の与える賜物は、用いれば必ず増えるということです。頂いた賜物は、持ち得ない人に分けることです。頂いている能力を教会のために使うことです。教会の英語の教師、手話の教師、聖書教育の教師、あるいは食事の奉仕、この能力は神からいただいた賜物です。

教会の伝道も同じです。私たちは、弱い者です。しかし、私達に下さる神の賜物は、私たちの想像を超えて、いく倍にも実を結ぶことができるものなのです。あなたの賜物を信じて用いて下さい。


投稿者 : church 投稿日時: 2014-09-21 05:46:35 (960 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書25章3,4,5〜10節  

愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。

宣教題 「信仰の備え」    牧師 新保雅雄

10人のおとめが、花婿の到着を待っていました。夜に到着する予定です。おとめはランプを持って花婿の到着を待っていました。

ところが花婿の到着が遅れたのです。そのため10人のうち半分の5人のおとめのランプの油が無くなりかけてしまいました。彼女たちは「愚かなおとめ」と言われています。

他の5人は、予備の油を壺に入れて持っていたのです。彼女たちは「賢いおとめ」といわれています。

13節、「だから目を覚ましていなさい」と主イエスは言われる。

「賢いおとめ」も「愚かなおとめ」も共に眠ってしまった。その点では違いがありません。ではどこが違うのでしょうか。

「油」を用意していたかどうかです。ではその「油」とは何か。油を用意しておくとはどういうことでしょうか。

「油」とは、神さまの下さる賜物のことをあらわしています。

燃えつきない油、用意されていた油とは、主の下さる油のことです。

燃えつきそうになっていた油とは、人間の用意した油のことです。

どちらのおとめも同じように眠りこんでしまいました。天の国に入れていただく資格がないのに、キリストが下さる油によって天の国に入れていただいたおとめ、「信仰の備え」が問われているのです。  

人は弱いものです。あのゲッセマネで寝てしまった弟子たち、そして私たちも、信仰の火が消えそうな時、主イエスに祈り求めて、すがるのです。主イエスに油をいただくのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2014-09-14 07:02:41 (968 ヒット)

本日の聖書   創世記32:23〜33(中心32)

「ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿(もも)を痛めて足を引きずっていた。」創世記 32:32

宣教題 「太陽は昇った」     北村紀一

ヤコブは兄のエサウが本来受けるべき祝福を策略によって騙し取りました。そのことで、エサウに恨まれて命を狙われ、エサウから逃げながら、長い間生活してきました。ところが、ヤコブはエサウと再会する時が来たのです。今までの経緯から、ヤコブにとっては喜ばしい再会ではなく、兄をだまして逃げたのですから、命の危険を感じる恐ろしい再会だったのです。

ヤコブは今までエサウを避けて何とかうまく人生をやりくりしてきました。

しかし、ヤコブにとっては人生の中で一番大きな課題であり、問題の中心であったエサウとの関係は何一つ解決されていなかったのです。ヤコブにとって人生の大きな課題はエサウとの和解でした。

「ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。『もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから』とその人は言ったが、ヤコブは答えた。『いいえ、祝福してくださるまでは離しません。』」創世記 32:25〜27

ヤコブは神様の祝福の約束を知っていました。つまり自分が神の民であることを知っていたのです。だからこそ、かじりついてでも神様の祝福を求めたのです。子どもの特権というのは、親に求める事ができるということです。

そうして得た祝福でしたが、ヤコブに与えられた祝福は、「腿の関節が外れたこと」でした。彼は足を引きずらなければ歩けない状態になってしまったのです。走る事はできません。つまり、逃げる事はできません。今まで色んな策略と智恵によって富と財産を築いてきました。ヤコブは頭の良い人でしたので、今回も、もし何かあったら頭を働かせて何とかその場を切り抜けようと思っていたことでしょう。

しかし神様は、ヤコブに対して人間の智恵に頼ることではなくて、ただ主にのみ頼るように求められました。そしてヤコブは弱さを知ることで、主に頼る者となっていきました。大事なことに気付いたヤコブの上に太陽が昇ったのでした。ここからヤコブはイスラエル(主により頼む者)として歩き始めるのです。


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