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板橋区仲町23−17
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(新保牧師携帯)
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投稿者 : church 投稿日時: 2011-12-04 07:36:53 (2590 ヒット)

聖書 マタイによる福音書3:11

「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がしする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。」

宣教題  「愛は人を生かす力がある」   

洗礼者ヨハネは、人々に神の怒りと裁きを告げ、悔い改めを迫っていました。人々は、続々とヨルダン川で水の洗礼を受けたのです。

洗礼者ヨハネは、神の怒りと裁きによって人を従わせました。「今すぐ、悔い改めて、ふさわしい実を結べ、しなければ木の根元に既に置かれた斧によって切り倒されてしまうぞ」と決断を迫っていました。

これに対して主イエスは、神に切り倒されてしまわないように、人を罪から救う為に、この世に来られたのです。主イエスは、恐怖心で人々を従わせようとはしませんでした。神の裁きを主イエス自身が、身代わりの犠牲として十字架で死なれ、人々を救おうとさたのです。

命をかけて、罪から救おうとされるほど、私たちを愛しておられる。このことを知る時、私たちの心は、揺れ動かされるのです。(信仰です)

洗礼者ヨハネと主イエスとの関係は、律法と福音との関係として理解出来ます。律法無しには、何が罪であるかを知ることは出来ない。また福音無しには、心から悔い改めて、救いを得ることは出来ない。

「お前は罪人だ、切り倒すぞ」と言い続けられるだけでは、決して心から素直に、自分の罪を悔い改めることは出来ない。たとえ、自身の中に悪があると知っていても、人は悔い改めることが難しいのです。

麻薬中毒で刑務所に何回入れられても、心から悔い改めて麻薬を絶つことは出来ない。何回過ちを行っても、涙を流して愛してくれる人がいるとき、人は心を動かされ、悪から抜け出す力が湧いてくるのです。

人は愛がなければ生きる気力を失います。愛は人を生かす力があります。命をかけてあなたを愛された、主イエスを思い出してください。どんなにあなたがダメ人間でも、決してあなたを見捨てることはない。

 


投稿者 : church 投稿日時: 2011-11-27 07:07:17 (2550 ヒット)

聖書 マルコによる福音書10章51節

イエスは『何をしてほしいのか』と言われた。盲人は『先生、目が見えるようになりたいのです。』と言った。」

宣教題 『あなたは神に何を望むのか』    

道端にバルティマイという盲人の物乞いが座っていました。彼は、主イエスが来られたと聞いて「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と大声で叫び出しました。主イエスの弟子たちは、このバルティマイを叱り付けて黙らせようとしたのです。

バルティマイは、物乞い生活から抜け出たい、もう一度人生をやり直したいと思っていました。そこに主イエスが通りかかった、この時を逃してはいけない。だから大声で必死に求めたのです。しかし彼の心の思いは、弟子や群衆には伝わらなかったのです。

弟子達の目には、道端の物乞いが、施しの金銭を得るために、いつものように「わたしを憐れんでください」と叫んでいるようにしか思えなかったのです。心の痛みまでは見えなかったのです。

弟子達が、叱り付け黙らせようとしても、バルティマイは、されるほどに、ますます大声で「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けたのです。彼の叫びは祈りとなり通じました。

主イエスは、立ち止まり「あの男を呼んで来なさい」と言われ、改めて「何をしてほしいのか」と尋ねました。他の物乞い達のように、金銭的なものを求めるのかどうか、改めて尋ねたのです。しかし彼は「目が見えるようになりたいのです」と答えたのです。

主イエスは「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と宣言されました。するとバルティマイは、すぐ目が見えるようになったのです。彼は新しい人生を手に入れ希望が見えたのです。

彼に対する人々の思いは、金銭の大小が生きる為の救いでした。しかし神の憐れみは、自身の足で歩む新しい人生でした。私達は神に何を求めているでしょうか? 金銭それとも希望でしょうか。


 


投稿者 : church 投稿日時: 2011-11-13 07:43:38 (2465 ヒット)

聖書 マルコによる福音書8章32、33節

すると、ペテロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。

宣教題 『救いとは肉との戦い』    

主イエスは、ご自分が「多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と、弟子たちに向かって、これから起きることを語り出しました。

そのときペトロが主イエスの話をさえぎり、わきへお連れして、いさめたのです「先生、死ぬなんてことをおっしゃるべきではありません。先生が殺されるなどと聞いたら、弟子たちは皆、離れて行ってしまいます」

ペトロがメシア(救い主キリスト)を、どう理解しているかが分かります。ペトロにとってのメシアは、どんな時も負けてはならない存在なのです。  

昔イスラエルのダビデ王が、敵との戦いで連戦連勝を続けたように、メシアは、勝利者でなくては困るのです。メシアが殺されては、いけないのです。これに対して主イエスは、「サタン引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」とペトロを強く叱りつけました。

人を救おうとするとき、救いに来た人が強くなければ、救いを求めている人を救うことは出来ません。救いを求めている人より、救う人が弱ければ、命を任せることは、出来ないんじゃないでしょうか? しかし、主イエスは、それを「人間の思いだ」としかりつけたのです。

神の救いとは、人の思いを超えた先にあります。メシアである主イエスが、人の罪の身代わりとして、自分の命を犠牲として献げてくださる。このことによって、神は、人を罪から救おうとされているのです。

真の救いとは、肉による勝利ではない、ことが分かります。その肉の思いを捨て、神に従うときに本当の勝利、救いがあるのです。つまり救いとは肉の思いとの戦いでもあるのです。主イエスは言われます「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

 


投稿者 : church 投稿日時: 2011-11-06 07:37:42 (2513 ヒット)

聖書 マルコによる福音書8章25、26節

イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。イエスは「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。

宣教題 『あなたは、何が見えるのか』    

主イエスと弟子達は、ベトサイダという村に着きました。この村に目の見えない人がいました。友人が、彼を主イエスの所に連れてきたのです。そして主イエスが、彼の目に手を当てると、ぼんやり「人が見える」ようになりました。更に主イエスが手を当てると、今度は「何でもはっきり見えるようになった」のです。

それから主イエスは、弟子たちに「人々は、私のことを何者だと言っているか」と質問しました。弟子たちは「洗礼者ヨハネだ」、「エリヤだ」、「預言者だ」という村の人々の声を報告しました。

主イエスは、弟子達にさらに質問されました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」今度は、弟子たち自身の思いを聞いたのです。ペトロが弟子を代表して「あなたは、メシアです」と答えました。メシアとは、救い主、キリストのことです。

そして、主イエスは、自分のことを誰にも話さないようにと、弟子たちに言われました。確かに、主イエスは、ペトロが答えた通りメシア、救い主です。しかし、どのようなメシア、救い主であるか、ペトロ達は、まだ理解出来ていないのです。

主イエスは言われます。まだ十字架の時が来ていない。だから「復活するまで誰にも話してはいけない」9:9 救いの為には、主イエスの十字架の死という、大きな犠牲があるのです。 

本当の救いとは、今ある目先の問題が、ただぼんやりと解決するだけではない。「今まで神が見えなかった人が、神が見えるようになること」そして神が見えるようになったとき「人生の希望の光を、はっきりと見れるようになる」ことなのです。その全てが十字架と復活によってなしえる。ここに救いがあるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2011-10-30 06:47:11 (2124 ヒット)

聖書 マルコによる福音書6章11〜13節

「しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。

宣教題 『あなたの言動が世界を変える』    

主イエスと弟子たちは、福音伝道の旅を続けています。弟子達は主イエスより神の国の福音を聞き、病気の人を癒す奇跡をまじかで見て来ました。行うのは主イエスです。弟子達は、ただ付いて従うだけでした。それが今度は弟子たちが、自身で宣教し、また病気の人を癒すために、村々へ遣わされることになったのです。

この弟子の派遣を、私達に置き換えてみてください。聖書を読んでいる。宣教を毎週聞いている。しかし、そのことがどのくらい身に付いているのでしょうか。教会から送り出されて行く場所、すなわち各々の日常生活の場、学校や家庭、職場、そこで主イエスの教えを、いかに実践しているのかが問われているのです。

現実の社会では、必ずしも主イエスの教えを、そのままに実践することが難しいこともあります。それによって葛藤や挫折を味わうことも多いかも知れません。だからと言って「教会では信仰の顔、現実社会では肉の顔」と器用に人生を送るのはどうだろうか。

時に私たちは、信仰によって不器用にしか生きることの出来ない自分に苦しむ時があります。世では隅に追いやられて損をするかもしれません。しかし、不器用だって良いのです。人と違っていたって、人と同じように出来なくたって、損をしても良いのです。

主イエスは「富は天に積みなさい」と言われます。世で損をしているように見えるが、それが神から与えられた恵みです。大事なことは、私達が社会の隅っこに押しやられているように見えても、そのことに腐ってしまって、持ち味を失ってしまわないことです。この世では損をしているように見えることが、実は大きな恵みであり、この世を祝福の世界に変える力になるのです。


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