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投稿者 : church 投稿日時: 2014-05-25 06:53:35 (982 ヒット)

本日の聖書  マタイによる福音書22章19〜21節

税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」


宣教題 「わたしは神様のもの」    牧師 新保雅雄


ヘロデ派とファリサイ派の人々は、主イエスに問いかけた。


「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」


ヘロデ派の人々は「もちろん納めましょう」という人々です。しかしファリサイ派の人々は、渋々納めている人々です。ファリサイ派とヘロデ派は、考え方が違う水と油の関係。仲が悪いのです。

 

ところが今日の聖書では、仲が悪い者同士が、主イエスを死刑にしたいということでは、利害関係が一致しているのです。そこで、「イエスの言葉尻をとらえて、罠にかけようと相談した」のです。


彼らは主イエスに質問します。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」。適っていないといえばローマへの反逆罪、適っているといえばユダヤ人が騒ぐ。


主イエスは、人々が見守る中、渡された1デナリ銀貨を手にとって言われた。「これは誰の肖像と銘か?」デナリ銀貨には、ローマ皇帝の肖像と銘が刻まれていたので彼らは、「皇帝のものです」と答えました。すると主イエスは、「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われた。彼らは急いで立ち去った。


一体何が『皇帝のもの』で、なにが『神のもの』なのだろうか?


聖書は、私たち一人一人は主のもの、神様のものだと言われます。私たちが、失敗をして、ざ折したり、人間関係がうまくいかない時、また負いきれない重荷を背負うとき。しかし感謝すべきことに、主イエスは、私たちは主のものである、と言われるのです。私たちが一人も滅びないようにするためなのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2014-05-18 10:08:28 (1049 ヒット)

本日の聖書  マタイによる福音書22章8〜10節
そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。

宣教題 「あなたは招かれている」   牧師 新保雅雄

王様の催す結婚式が開かれた。招待される人達は、政治家、学者、宗教指導者、政府要人といった地位や名声のある人達ばかりです。「選ばれた」人達であり、招待されることは大変名誉なことです。

結婚式当日、家来たちが招待客のところに行くと、ある人は畑に行き、またある人は商売に出かけたというのです。王様の王子の結婚式です。しかし招待されながら、仕事に出かけてしまったのです。

そこで王様は、家来たちに町の大通りに行って、誰でもいいから連れてこいと命じます。この王様の選びによって、何の地位もない私たちも、王子の結婚式の宴席に入れていただけたのです。

しかしこの宴席に招かれた人のなかで、礼服を着ていない人が一人いたというのです。そしてその人は外に放り出されたのです。

王様とは父なる神様であり、王子とは御子イエスです。そして結婚式の宴席とは神様の御国のことです。そして礼服とは主イエスの十字架によって罪を赦され白くなった信仰のことを意味しています。

神の御国で礼服を着ていない人とは、せっかく教会へ神様によって招かれているのに、主イエスを信じられない人のことです。

神様は特別な地位や能力を持たない人を選ばれました。そして十字架の恵みによって神の国の礼服を着せてくださいます。どうか素直にイエス・キリストによる祝福を受け入れてください。そして父なる神様に招かれていることを大切にしてください。


投稿者 : church 投稿日時: 2014-05-04 05:22:46 (1177 ヒット)

「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(28〜29節)

宣教題 『聖霊のわざを見よ!』    北村 紀一

「聖霊を冒涜する」とは、どういうことでしょうか。この箇所の言葉の意味はなかなか難しいと感じる人が多いのではないかと思います。

「聖霊を冒涜する」とは、聖霊を拒み、聖霊の働きに反対すること。つまり神様を信じると言いながら、神様の働きを軽視すること。人には教えながら、自分には教えないように、言ってることと行いが違う生き方をすることです。

イエス様の働きは、いつも聖霊とともにありました。したがって、悪霊を追い出した力も聖霊によるし、イエス様の宣教の中心は、サタンの支配から神様の支配へかえることが目的なのです。つまり、聖霊とは、神さまの御心のままに働く力で、神様の愛によって従う(援助者)そのものであります。

そのように、イエス様の罪の赦しには例外はありません。イエス様の十字架を信じるならば、だれでも救われるのです。しかし、それを拒むとしたら、どうでしょうか。それは、おいしくて栄養のある食事を用意されても、食べないと拒否するのと同じです。食べなければ栄養をとることができません。

まして、イエス様の働きを悪霊の働きとして、拒否するとしたら、いくら天国に招かれていても、一生懸命抵抗して入らないようにしていることになるのです。それでは、神の国には入れないということになります。つまり、聖霊を冒涜する者は赦されないということになるわけです。

だから、自分の罪を認めることが必要です。本当に大事なことが何かを求める必要があります。気付きが必要です。正しく判断する知恵が必要です。求めれば与えられるのです。

私たちは、聖霊の力によらなければ、イエス様を主と告白することはできません。イエス様に従うことは、聖霊に従うことです。

イエス様のお名前を使って祈ることは聖霊(援助者)の力によって祈ることです。聖霊によって、イエス様の十字架は、私たちが神さまから離れることがないように示された愛のしるしと理解できるようになります。「主の名によって祈る」ことが赦されていることを知ります。そうですから、いつも、祈りが必要です。私たちのために、十字架に架かってでも救い出そうとしておられる神様の愛にこそ、私たちは心を注ぐものでありたいと思います。


投稿者 : church 投稿日時: 2014-04-27 06:44:28 (1266 ヒット)

本日の聖書 マタイによる福音書21章36〜39節

また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。

宣教題 『神の忍耐』   牧師 新保雅雄

神は、イスラエルを愛するがゆえに、僕である預言者たちを送ってきた。しかし人々は、なかなか受け入れないどころか預言者たちをひどい目に遭わせ、殺してしまった。にもかかわらず、「今度こそは」と信じて、大切なひとり子イエスを送った。「我が子なら敬ってくれるだろう」と思ったからです。

そこまで忍耐し、信じて、人が悔い改めるのを忍耐強く待っていてくださるのが、私たちの神様なのです。僕である預言者が迫害され、殺されても、なおねばり強く「今度こそは」とあきらめないで、悔い改めるのを待ってくださる。それが私たちの天の父なる神様であるというのです。

私たちから見ると、ばかばかしいほどの忍耐です。しかし、そうだから私たちは救われるのです。

農夫たちは、跡取り息子を殺してしまったのですから、主人に復讐されるのが当然だと、思います。しかし、神様はそうなさらない。神の国の跡取りである御子イエスさまを十字架にかけた人々を罰しないで、反対に救おうとなさるのです。

神様に対して罪を犯し、もう本当は救われる値打ちのない人々、そしてそれは私たちも同じなのですが、その罪人の頭を、神様は十字架によって救おうとなさるのです。


投稿者 : church 投稿日時: 2014-04-13 01:06:16 (1245 ヒット)

本日の聖書 マルコによる福音書15章29節〜41節
「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。」(39節)

宣教題 「本当に、この人は神の子だった」 北村紀一

十字架に架けられたイエス様を見ていた百人隊長が、イエス様の“何に”感動して「この人は、本当に神の子だった」と告白したのでしょうか。

彼はこの十字架のイエス様をずっと見ていた人でした。イエス様が裁判を受けて死刑の判決を受けるときに、イエス様と人々の間で、暴動が起こらないように見張りながら、十字架を担がせたのを見ていた人でした。イエス様をいよいよ十字架につけるとき、釘で指すことを指示した人です。十字架刑を執行し、きちんとイエス様を殺さなければいけない、その責任を負っていたのです。つまり、イエス様の十字架をはじめから終わりまでずっと見続けた人でした。

そして、人々に侮辱され、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言って死んでいったイエス様の姿を見て、「本当に、この人は神の子だった」と言ったのです。

祭司長や律法学者たちは、十字架から降りて自分を救うことができたら、信じてやろう(32節)とののしりました。十字架から降りるという奇跡を見せたら、つまり神さまがお前を助けたという“しるし”を見たら、お前が何の苦しみも悲惨もない、神に救われた姿を見たら、「神の子」と信じてやろうというのです。

けれども、百人隊長は、苦しみも悲惨もない神様の救いを受けているから、イエス様を「神の子」と感じたのではありません。十字架という、これ以上ない苦しみと悲惨の中に置かれて、心の声を代弁され、それでもなお、神さまを信頼して、勇気と希望を失わない信仰に、救いを見いだす姿に感動して、「神の子」と告白したのです。イエス様の姿を通して神様との距離がなくなったように感じたのです。

神様は、何の苦しみも、悲惨も知らない方ではなく、痛みも悲しみも病も知っておられるのです。一緒にいて同じ思いを味わってくださる御方です。イエス様の十字架を通して、私たちは、神様との間にあった隔たりが取り除かれたのです。

イエス様が私たちのように、人生で味わう苦しみ、悲惨、その気持ちを味わわれたからこそ、私たちの苦しみと気持ちを分かってくださり、支えてくださるので、そこから救い出してくださると信じることができるのです。


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