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投稿者 : church 投稿日時: 2015-05-24 06:16:13 (941 ヒット)

本日の聖書  ルカによる福音書13章23〜24節

「主よ、救われる者は少ないのでしょうか。」と言う人がいた。

イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。」

宣教題「人生の荷物を減らしなさい」 牧師 新保雅雄

ある人が主イエスに「救われる者は少ないのでしょうか」と訪ねました。それに対して「狭い戸口から入るように努めなさい」と主イエスはお答えになりました。人々の関心事は「私は救われるのか」でした。

この後主イエスは、金持ちの議員に言われています「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(ルカ18:24、25)

さらに主イエスは、「言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」と語られています。誰もが神の御国へ入りたいと思っています。しかし、実際には、入れない人が多いのです。なぜでしょうか?

御国へ入るには、信仰という切符一枚あればいいのです。しかし、私たちは、あまりにも有り余るものを持ちすぎていないでしょうか。財物や、それを求める欲望という心が、大きすぎるから、狭い入り口からは入れないのです。なぜなら御国へつながる入り口は、狭いからなのです

パウロは、人生は旅のようなものだと言われています。神から生まれ、また神の元に帰る。裸で生まれ裸で帰る。その間の人生は旅。しかし旅の途中で沢山の荷物を持ちすぎるあまり、重たくて自分の家に帰ることが出来なくなる。世は、正に沢山持つ者を成功者と呼ぶからである。

ではどうしたら荷物を減らすことができるのでしょうか。

いままで蓄えてきた世への執着、神から離れ世にとらわれた心を悔い改め、主イエスの十字架によって軽くしていただくのです。その時に狭い入口を通ることが出来るのです。そのことを「自分の十字架を背負って着いて来なさい」と言われています。十字架の先に、そこにこそ神の国の入口があります。


投稿者 : church 投稿日時: 2015-05-17 07:14:08 (932 ヒット)

本日の聖書  ルカによる福音書12章36節

「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトが、ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。『そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。』」

宣教題 「人を裁かない」  牧師 新保雅雄

  主イエスのもとにやってきた人が「ピラトが、ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」と言うのです。これはエルサレム神殿へ礼拝に来たガリラヤ人を、ポンテオ・ピラトが殺してしまったという意味です。

  こうした悲しい事件を聞かされた時の人の反応は、二とおりあります。

  一つは、悲しい話を聞いて自分のことのように悲しみ、神の慰めを心から祈り、家族を励ます人がいます。

  もう一つは、「これは何かのバチが当たったのだ」と考える人、つまり裁く人がいます。因果応報、悪いことが起きるのは、そこに悪い行いや原因があるに違いないと考える人です。

  私が若い時に入信していた新興宗教も、悪いことが起きると、その原因を探るんです。信心が足りないから事故に合った、あなたの先祖が犯した罪があなたにたたっている。印鑑が悪い、家の方角が悪い、名前が画数が悪い。そうして高額なお金を払わせる。よく聞く話です。

  主イエスは、2節「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と語られました。

  人が善いか悪いかを詮索する人に対して、まず「自分自身を悔い改めなさい」と言われます。誰が罪深いのかを決めるのは神です。 

  周りの人と比較して、自分は、あの人よりは真面目だから事故にあわず安全だ、などと考えるべきではないということなんです。


投稿者 : church 投稿日時: 2015-05-10 07:00:38 (885 ヒット)

本日の聖書  ルカによる福音書12章36節

「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。」

宣教題 「主を待つ人」  牧師 新保雅雄

  主人が出掛けている時、僕達がどうしているかというお話です。この主人と僕との関係は、主イエスと私達の関係を現しています。

  僕たちは家に主人がいる時は、当然、誰もが皆、言われた通りに真面目に働いていました。しかし主人が留守の時、違いが出てきます。主人の目がない留守の時に、その人の本当の姿が分かります。

  例えば、会社で社長がいないとき、私達は、どういう態度で仕事をしているでしょうか。社長がいてもいなくても同じでしょうか。

  主イエスは、信仰生活を裏表なく、どんな時も主イエスを待ち望みながら過ごすべきであることを、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。」と教えています。

  「腰に帯を締める」とは、いつ主人が帰って来ても、すぐ出迎えられるようにするためです。主人が帰って来てから、あわてて帯を締め準備をするようでは、ダメだというのです。

  「ともし火」とは、玄関先を照らす光です。主人が夜帰った時に、玄関が真っ暗であったら寂しさを感じるのではないでしょうか。腰の帯とともし火とは、主人を出迎える為の準備を現しています。

  主人、つまり主イエスが来られる日は、思いがけない時に突然来られるからです。いつも信仰の生活を送れるようにしたい。

  人が見ている時、教会の時間だけのクリスチャンにならないようにしたいものです。信仰はするもの、見せるものではありません。信仰は神様から頂く恵みです。信仰生活とは恵みに感謝する人生。いつも感謝する人生を送るなら、人に親切に優しくできるのでは。


投稿者 : church 投稿日時: 2015-05-03 06:39:40 (888 ヒット)

本日の聖書  ルカによる福音書24章32節

「二人は『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った」

宣教題 「あなたと共に歩まれる主」  牧師 新保雅雄

イエスが十字架につけられた三日後の日曜日 、二人の弟子がエルサレムからエマオへ向かって歩きながら、主イエスの十字架と復活について熱く語り合っていました。

そこに主イエスが近付いて来て一緒に歩かれたのです。しかし、二人の弟子達には、その方が主イエスだと気づかなかったのです。

エオマの近くまで来ましたが、夕方になり日が沈みかけてきたので、彼らは主イエスを引き止め、一緒に泊まることにしたのです。

夕食の席で主イエスは、パンを取り、讃美の祈りを唱え、パンを裂いて、この二人の弟子達に、お渡しになりました。

 その瞬間、この二人の弟子たちは目が開き、その人が主イエスだと分かったのです。そしてエマオに向かう道中で、主イエスと語り合った時、自分たちの心が燃えていたことを思い起こしました。

エオマへ向かうとは、人生の旅路を意味します。主イエスは、あなたの人生の旅路を、あなたと共に歩み、聖書を説き明かして下さる。

いま私たちは、主イエスを見ることはできません。しかし、聖書を読む時、礼拝の時、祈りの時、主イエスを心に思う時、その時々、主イエスが共におられて、あなたの人生を共に歩んでくださる。

主イエスを思う時々、主イエスは、私たちに語り掛け、働き掛けておられることを知って下さい。実に主イエスは、十字架にかかり、死んで三日目に復活され、今日あなたと共に生きておられます。

主イエスは、あなたと共に、あなたの人生を歩んでおられます。今日の聖餐式に、あなたの心の目が開くのを待っておられます。心から祈ってください。主イエスの御声があなたの心に響くでしょう。


投稿者 : church 投稿日時: 2015-04-19 06:54:39 (869 ヒット)

本日の聖書  ルカによる福音書22章42節

「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」

宣教題 「信じてゆだねる」    牧師 新保雅雄

主イエスは、十字架に付かれる前夜、弟子たちと過越しの食事「最後の晩餐」を終えられるとオリーブ山のゲッセマネへ行かれた。

主イエスは、ゲッセマネに着くと一人で祈り始められました。

「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」

「杯」というのは、「十字架の死」を意味しています。

神の子イエスがこのように祈られたことを、皆さんは意外に思われるかも知れません。「神の子なのに、まるで弱い私たち人間のように祈るのか?」と思われるかも知れません。

しかし私たちは、この主イエスの祈りによって救われるのです。主イエスの人間らしい弱さ、優しさに触れるとき安心するのです。私たちの苦難を主イエス自身もご存知である。からなのです。

私たちの正直な心の祈りも、この祈り以外の祈りは、不謹慎であると感じるのではないでしょうか。そして、主イエスの様に祈れない不信仰な自分に葛藤するのではないでしょうか。

主イエスが、そうであった様に、私たちも自分の苦しみを素直に、神に祈れること、そう神は私たちの父であるのです。律法学者の様に模範的な、キリスト者だから、信仰者だから、隣人に優しいから、良い人だから、そんな口先の祈りを作り出さなくともいいんです。

恥ずかしい弱い自分を素直に現してもいいんです。痛ければ痛い、苦しければ苦しい、ありのままの祈りを聞き届けて下さるのです。

しかし、祈りは独りよがりではいけません。信じて祈ることを忘れてはいけません。神の愛を信じることです。今苦しいかもしれない、しかし苦しみだけでは決して終わることはないのです。永遠の復活が必ずあるからです。


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