本日の聖書 使徒言行録10章9〜16節
「翌日、この三人が旅をしてヤッファの町に近づいたころ、ペトロは祈るため屋上に上がった。昼の十二時ごろである。彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅にでつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声がした。しかし、ペトロは言った。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。』すると、また声が聞こえてきた。『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。』こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。」
宣教題「ペトロの見た幻」 牧師 黒瀬 博
ペテロの見た幻
ペテロはローマの百人隊長コルネリオに招かれてカイザリヤに上ってゆく前に幻を見ました。この幻の内容は、原始キリスト教会の方向性を決める重要なものでしたが、それだけでなく、今日のキリスト教会もまた再確認する内容を含んでいると考えられます。というのは、旧約律法を否定するというのが、この幻の直接のメッセージですが、今の時代に合わせた解釈するなら、律法的発想から自由になりなさいと言う神様のメッセージとして捉えることができるからです。イエス・キリスト以来、キリスト教は律法を乗り越える方向へと発展してきましたが、長い歴史の中で、いつのまにか再度律法的発想が教会に忍び込んできている面はないでしょうか。その点を反省するためにも、このペテロ見た幻の物語は重要であると思われます。
ペテロがヨッパという町で活動していたときのことです。丁度、昼の12時頃、祈りの中でペテロは幻を見ました。「夢ごごち」と書かれているので、日本語の「白日夢」のようなものだったのでしょう。天の窓が開けて大きな敷布のような布が降ろされてきました。よく見ると、その中には動物の肉が並べられていました。もちろん、料理されていて、もうすぐに食べられる状態になっていたのでしょう。ペテロはおなかが空いていたので、食べたいと思ったのですが、よく見ると、それは律法で食べてはならないと命じられている肉ばかりでした。
天からの声は「さあ、食べなさい」というものでしたが、ペテロは答えました。「私はまだ清くない動物の肉を食べたことはありません。」非常にえん曲な言い方ですが、神の声に対するお断りの言葉になっています。ところが、再び神の声がしました。「神が清めたものを、清くないなどと言ってはならない。」
この神の声はたいへん説得力ある内容となっています。一体誰が神の清めたものを「清くない」などと言う権威を持っているでしょうか。人間である限り、誰も神に逆らうことはできません。
人間の目には綺麗と思うものでも、実は汚かったということはよくあります。しかし、その逆に、人間の目には汚いと思えるものが実は綺麗である。そういうことがあるのでしょうか。めったにあることではないと思えるのですが、こうやって、聖書の中で「神の清めたものを清くないなどと言ってはいけない」という御言葉があるということは、そういうこともあるのかと思わなければなりません。
この御言葉は人間の常識を根底からひっくり返す驚くべき、そして、考えようによっては恐るべき内容を含んでいます。私たちは、いつも自分の判断を頼りに生活しています。これは綺麗、これは汚い。これは食べられる、これは食べられない。これは正しい、これは間違っている。・・・といろいろな状況の中で、誰かに相談するわけではなく、自分で考えて判断しています。この能力は「理性」とも、「良心」とも言われることもありますが、神様が与えてくださった能力ですから、大切にしなければなりません。
しかし、このペテロの幻のメッセージにもありますように、私たちの理性による判断がいつも正しいわけではありません。これは、少々困った現実ですが、振り返って見ると、たしかにそういうことが多々ありました。自分かってな思いこみや、間違った判断をして失敗したことを挙げてゆくとキリがありません。人間は理性を持っていますが、それにも係わらず、間違うこともしばしばです。ですから、神が清めたものに対しては、自分の信念を曲げてでも、それを率直に認め、受け入れる素直さを持ちたいものです。
ペテロは、原始キリスト教会の指導者のひとりでしたが、この頃、まだ旧約律法を守ることが必要だと考えていました。旧約律法を守るべきかどうかという問題は、今日では問題になりませんが、原始キリスト教会では解決の難しい大問題でした。原始エルサレム教会では、クリスチャンは律法を守るのが当然とされていました。一方、異邦人教会では律法を守らなくて良いという考えがすでに確立していました。なぜなら、イエス・キリストの十字架により、律法がすでに廃棄されているからです。この深刻な理論的対立の中で、パウロは反律法派の旗頭でした。ペテロは、12弟子の代表として全キリスト教会を代表する人物でしたが、彼がどう考えるかはキリスト教の将来を左右するほどの重要性があったのです。
そのような状況の中で、ペテロは幻を見たのです。神は「私が清めたものを清くないとは言ってはならない。」と教えて、律法の限界をペテロに教えたのです。ペテロは穏健な人物だったので、ユダヤ人クリスチャンに対して、律法を止めましょうとは勧めなかったようですが、アンテオケなどでは、異邦人クリスチャンと仲良く生活し、パウロとも交わりを持っています。ところが、エルサレムから厳格派のクリスチャンがやってくると、彼らへの配慮からだと思いますが、しばらく異邦人との交わりを控えるという行動に出ました。これをパウロに見とがめられて、パウロがペテロを叱責するという大事件が起こりました。
ペテロは12弟子の中でも一番弟子です。そのペテロをパウロが叱責するのですから、パウロの勇気はたいしたものです。ペテロは、それに腹を立てたかというと、聖書には何も書かれていないところを見ると、おそらく、パウロを赦したのではないでしょうか。ペテロはそれほど太っ腹の大人物だったとも考えらます。
とにかく、ペテロが律法について寛容な考え方をするようになったことが、初期キリスト教の発展を助けたことは確かであって、その前提にこの幻があるのですから、やはり、キリスト教会は、この方向に発展しなければなりませんし、これからも、律法的考え方を排除し、律法ではなく、倫理を中心とした生活態度を確立し、神様に喜ばれる人生を歩みたいと思います。
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