2012年7月8日 「罪の告白と罪の赦し」

投稿日時 2012-07-08 00:01:15 | カテゴリ: 礼拝説教要旨

本日の聖書 マタイによる福音書3章15節 

しかし、イエスはお答えになった。『今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。

宣教題 『罪の告白と罪の赦し』  牧師 新保雅雄

キリスト教会には、聖餐式と洗礼(バプテスマ)という二つの聖礼典があります。今朝は、新しい生命の出発となる洗礼について学びます。その洗礼の起源(キリスト教として)ですが、主イエスが最初に弟子に洗礼を授けたのが始まりと想像しますが、そうではありません。その逆で、主イエスご自身が洗礼を受けたという出来事が、伝道の開始に先立ってあったと、マタイ福音書は記しています。

つまり主イエスが、キリスト教の洗礼を制定する前に、主イエス自身が受洗したことが、キリスト教の洗礼の起源にあるのです。

ヨルダン川で洗礼を施していた洗礼者ヨハネも、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたがわたしのところへ来られたのですか」と私たちと同じ疑問を持って聞きなおしています。

では、主イエスは、悔い改めのバプテスマを必要としたのでしょうか? 決してそうではありません。パウロが「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」と言っています。主イエスは罪と無縁なのです。主イエス自身に罪がないからこそ、私たちの罪を身代わりとして贖うことができたのです。 

ではなぜ主イエスは、洗礼を受けることを望んだのでしょうか?

悔い改めを必要としている、罪に苦しむ私たち罪人、その列の中に入って下さり、先頭に立って、みずから洗礼を受けられたのです。天の高いところから悔い改めを迫ったのではありません。あなたの中におられるのです。ここに神の愛があります。

ヨハネの洗礼には、罪の告白はありましたが、罪の赦しを得させる力まではありませんでした。主イエスの洗礼は、あなたの罪を赦し、そして新しい命へと続く為の、救いの力があるのです。

 






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