2020年11月1日「裁きではなく憐れみの心を」

投稿日時 2020-11-01 06:28:05 | カテゴリ: 礼拝説教要旨

本日の聖書 マタイによる福音書12章7節

もし『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。

宣教題「裁きではなく憐れみの心を」  牧師 新保雅雄

安息日に、主イエスと弟子たちは、麦畑を通られました。その時、空腹であったので、麦の穂を摘んで食べました。その様子を見ていたファリサイ派の人々は「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と主イエスを批判しました。

ファリサイ派の人々は、麦の穂を摘むことは「収穫という労働」になるので、安息日には禁じられているというのです。対して主イエスは、こう言われました。かつてダビデ王が、自分も供の者たちも空腹であった時に、祭司のほかには食べてはならない、供えのパンを食べたこと、さらに安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならないではないか。

主イエスの弟子たちは、祭司が神殿に仕えるように、キリストに仕え福音に生きる人々に救いをもたらせるのであるから、祭司に認められているなら、私の弟子たちにも認められて当然であるという。

さらに「わたしが求めるものは憐れみであって、いけにえではない」あなた方ファリサイ派の人々が、主イエスの弟子たちを非難するのは、憐れみの心が無いからだと言われました。

時に、信仰への熱心さ、真面目さから、原理原則論が信仰のすべてであるような、信仰とはこうあるべきだ。このことが弱い者を非難していくということにつながっていく。教会が弱い人への優しさや配慮を失い、憐れみを捨て、人を裁くことに熱心になっていく。

勿論、原理原則は重要です。しかし、白か黒かで人を縛るのではなく、出来ない人を受け入れることが大切なのです。世間で落ちこぼれて宗教の門をたたいたのに、そこでもふるいにかけられ落ちこぼれていく、彼らは、いったい何に誰に、すがればいいのだろうか。少なくとも落ちこぼれを非難するのが宗教ではないはずです。






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