2019年1月6日「疲れた者、休ませてあげよう」

投稿日時 2019-01-06 06:10:51 | カテゴリ: 礼拝説教要旨

 本日の聖書  マタイによる福音書11:28〜30

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

宣教題「疲れた者、休ませてあげよう」 牧師 新保雅雄

主イエスは言われました。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」現代社会、多くの人が疲れを覚え、重荷を負って苦しんでいるのではないでしょうか。

例えば生活への不安、職場や学校での人間関係の難しさ、家庭内の問題、夫婦、嫁姑、親子関係の悩み、将来への不安もあります。健康の不安、そして死への不安。多くの重荷を負い、心が疲れます。

では主イエスは、どのようにして私たちを休ませ、重荷を取り除いてくださるのでしょうか? 28節「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」。そして29節「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」

「軛」というのは、牛の首にあてる木です。牛の首に軛を付けて荷物を引かせたり、土を耕したりさせました。つまり、牛を農作業で働かせるための自由を奪う道具です。

私たちは「この世の軛」を首に掛けられて自由を奪われているから、苦しんだり、悩んだり、心が疲れたり、重荷を負ったりするのです。「休む」とは、そういうこの世の重荷、この世のくびき、自分にかけられたくびきが、なくなることが、休まることではないか。そう思うのです。 

ところが、この世のくびきを首にかける代わりに、主イエスのくびきを首にかけなさいと言われるのです。軛がなくなるのではなく、新たに主イエスの軛をかける。とは何故なのでしょうか?






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