2018年3月4日「十字架を宣べるとき」

投稿日時 2018-03-04 06:45:39 | カテゴリ: 礼拝説教要旨

本日の聖書  コリントの信徒への手紙1:22〜24

「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。

すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」

教題「十字架を宣べるとき」 牧師 新保雅雄

パウロは、アジアからヨーロッパへかけて伝道の旅に出て行きます。その行き着いた先々でキリストの十字架を宣教してきました。

しかし、多くの人々はパウロの宣教を聞いて「頭のおかしなおじさん」としか見られませんでした。当然世の知恵で見る限り十字架とは死、すなわち命の終わりを意味するわけですから、その先にある復活の命は、到底理解ができなく、福音とは受け入れられません。

そこでパウロは、キリストの十字架を愚かとしか見ない人々に「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものである」と言いました。

では十字架の言葉とはなんでしょうか? 「わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目に復活したこと、」(15:3、4)  

つまり自分自身の中にある罪の大きさを認めること、弱さを知ることである。そのときあのイエス・キリストの鞭打たれた一本々の傷の痛み、十字架に無残に釘で打ちつけられた醜さと苦しみが、わたしたちの「罪と弱さの姿」であることに気付かされるのです。十字架とは自分自身を飾らず、ありのままに自身の罪を認めることである。そのとき神の赦し、神の愛が見えてくるのです。

福音の宣教、キリストによる救いの証しは、不思議なしるしを見せびらかすことではなく、知恵をひけらかすわけでもなく、十字架の出来事を、伝道者がそのまま現すという方法で行われてきました。

それは、一見愚かなこと、つまらないことのように思えますが、本当は、イエスキリストの十字架の出来事の中にこそ、神の力、神の知恵、さらには神の愛が現されています。






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