本日の聖書 マタイによる福音書1章14節
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
宣教題「神が人となられた」 牧師 新保雅雄
私の中学の同級生が、同じ中学の後輩の会社で働いています。他の同級生は言いました。「後輩の会社で働くなんて、俺はプライドが赦さないよ。貧乏でもいいから俺はよそで働くよ。恥ずかしくないのか。情けないね。」そう言う彼は、年商数億の会社の社長になっています。中学生当時は貧しい家庭でした。高校へも進学できませんでした。その貧しさをばねにして下から上に成り上がりました。今は毎晩高いクラブで豪遊しています。頑張ってつかんだ成功は、いつしか下の人や貧しい者を見下げるようになりました。
二百年続いた江戸幕府の創始者である徳川家康は、死んで人間から神になり日光東照宮に祭られています。この社会では下から上になることは、偉大な事であり喜ぶべき事であり神とまで崇められる。しかし上から下へ行く事は、恥ずべき事、情けないこととされる。
神が人となる。神は霊であり目に見えないお方です。ところが私たちと同じ肉体になられ、この世界に来られました。ご自分の立場や地位を放棄され、悩みや悲しみ痛みを背負った人間と同じ姿になって下さった。それがクリスマス。主イエスの誕生の時です。
クリスマスの喜びは、神が人間になられる、というとんでもない出来事によって訪れました。神が人となる。まさに驚くべきことでした。当時のユダヤ人にも考えられない、思いもよらないことでした。ですからユダヤ人は神を冒涜することだと考え、死刑にしました。
神が人となられたことによって、私たちの生きることの意味も、私たちの信仰も、私たちの愛も、そして救いもこの奇跡の中の奇跡の上になりたっています。聖書には数多くの奇跡が記されています。しかし、聖書のどの奇跡物語よりも神が人となられたということ以上の奇跡はありません。神が人となられた。ここに私たちが神によって造られた本来の人間の姿を取り戻す救いの原点があります。
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