本日の聖書 マタイによる福音書26章50節
イエスは「友よ、しようとしていることをするがよい」といわれた。
宣教題「人の思いを超える御心」 牧師 新保雅雄
主イエスが、12弟子たちと「最後の晩餐」をされ、夜中にゲツセマネでの祈りを終えられた時のことです。さっきまで最後の晩餐を共にしていた12弟子の一人であるイスカリオテのユダが、主イエスの所にやって来ました。そして、「先生、こんばんは」と言って、主イエスに接吻したのです。
ユダの言葉「先生、こんばんは」そして「接吻」とは、相手への敬意、親愛の情を示すものであるはずです。しかし、ユダは、これを悪意あるものに変えてしまいました。
神に背き、自分を正当化する者は、主イエスの存在が邪魔になるのです。主イエスは、何が神の御心であるのかを明らかにするからです。そのため、頑なになって、悔い改めて神に立ち帰ることを拒む者は、自分が正しいことを主張し続けるために、目障りな主イエスを、抹殺しようとするのです。
しかし、こうした試みは、決して成功致しません。たとえ、主イエスを十字架に付けて殺すことに成功しても、神は、死人の中から復活させることが出来る力を持っておられるからです。人間は、神の相手になれるほど強くはありません。相手にならないのです。
時に、神は、私たちの思い、願い、予想、判断、常識を超えた形、すなわち、全く思ってもいなかった形で、ご自身の救いの計画を成し遂げられます。神の子イエスが十字架で殺されることで人の救いを達成することは、正に、人の思いに反しています。
こうして神の救いの御業が成し遂げられたことを知る私たちは、時に、我が身を襲う思いがけない苦難、辛い出来事の中にも、神の御心があることを信じたいものです。
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