本日の聖書 マタイによる福音書5章5、6節
「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え乾く人たちは、幸いである、その人たちは満たされる。」
宣教題「柔和な人」 牧師 新保雅雄
主イエスは、「山上の説教」で「幸い」について宣教されました。本日の聖書箇所には、全部で9回「幸い」を語られた。その中で、3番目と4番目の「幸い」を通して、主イエスの御心を学びたいと思います。
主イエスは、「柔和な人々は、幸いである」と語られています。一般的には、「柔和である」ということは、温和で、穏やかであることを意味します。つまり相手を、にこやかに受け止め、微笑みながら話を聞いてくれる人の姿が思い浮かびます。あるいは、その人と話をしているだけで、心が穏やかに安らいでくる人を思います。
確かに、主イエスが、ここで言われている「柔和である」ということは
この温和で、穏やかな笑顔を持つ人の姿を意味しているのでしょう。しかし、それに加えて、もう少し深い意味があります。
主イエスの言われる「柔和である」ということを知る上で参考になるのは、マタイ11章29、28節にあります。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言われています。その中に「私は柔和なもの」がでてきます。
つまり「柔和である」ということが、ただ単に温和で穏やかで優しいということだけではなく、神、主イエスとの関係にあることが分かります。
柔和であることは、一般的な意味での、人としての優しさや、笑顔の姿にとどまらず、神との関係において言えることなのです。神への信仰という関係なくして、柔和な幸せはないということです。
柔和とは、腹の中は黒いのに、ただ外面をニコニコ作ることではなく、心の中から出ることであり、神に従う厳しさも持ち得るときに、柔和が幸せになるのです。
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