本日の聖書 イザヤ書65章17〜25節(中心18〜19)
「世々とこしえに喜び楽しみ、喜び踊れ。わたしは想像する。見よ、わたしはエルサレムを喜び踊るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する。わたしはエルサレムを喜びとし、わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。」
宣教題 「喜び踊れ」 北村 紀一
私たちの人生の中には、周りが食べていても、自分は飢える。周りが飲んでいても、自分は渇く。周りが喜んでいても、自分は恥を受け、周りが喜び楽しんでいても、自分は心の痛みによって叫び、泣きわめく。そんな希望のかけらもないような状況に支配される時があります。(イザヤ65:13〜14)
神様から選ばれたイスラエルの民でしたが、何に頼ったのか、イスラエルの民は飢え渇きを覚えます。
本来はイスラエルの民にこそ与えられるべき祝福でしたが、彼らは神様に従わず、その心は神様から遠く離れてしまったので、神様はイスラエルの民に厳しい裁きを告げると同時に、神様を求め続ける者には祝福を宣言されました。
そのように教会に行っているからとか、自分は特別だからとか、身分があるからとか、財産や地位があるからとか、またクリスチャンとして模範的な生き方をしているからとかよりも、実に神様の憐れみに寄りすがって主に従って生きているかどうかの方が大事なのです。
ですから私たちは、いつも主に心を向けることが大事だと言うことです。しかしサタンはどうにかして私たちの目を神様から離れさせようとしています。与えられていることが当たり前のように思わせて、感謝の心を薄れさせたり、自分こそ正しい者であるかのように勘違いさせたり、逆に何か苦しいことがあれば、過去の記憶に引きずられて落胆し、自暴自棄にさせたりします。しかし、大事なことは、顔を向けにくいそんな時こそ、主に心を向けることです。
主に心を向けると、はじめは恐いと思うでしょう。しかし本当に大事なことがわかってきます。こんな自分でも主は愛してくださることを知ります。そして新しく生きる力を与えてくださいます。消えることのない希望を与えてくださいます。それが新しい天と新しい地であり、そこは主が共にいてくださり、まことの平安があるのです。主であるイエス様の十字架によって与えられたこのまことの希望は誰も奪うことのできないものです。その希望をしっかり掴んで離さないように生きる時、私たちはいつも喜び踊るものとされるのです。
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