本日の聖書 イザヤ書1章10〜20節(中心15〜20)
「お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ、善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる。お前たちが進んで従うなら/大地の実りを食べることができる。かたくなに背くなら、剣の餌食になる。主の口がこう宣言される。」
宣教題「論じ合おうではないか」 北村紀一
礼拝と献金を守っている人々に対して、罪を悔い改めずに、いくらお前たちが手を広げて祈っても私は目を覆う。決して聞かない。と主は言われます。
これは、罪を悔い改めないままで、礼拝を守っても、いくら献金をしても、主は喜ばれないということです。聖書は「聞き従うことはいけにえにまさる」と言われるように、意地を張ったり、意味のない頑固を貫くよりも、まず悔い改めることが必要なのです。悔い改めることは聞き従うことだからです。
しっかり現実に向き合って、本当に必要なことに耳を傾けるようにと主は求めておられます。耳を傾けると対話がはじまるからです。
ここで主は、「論じ合おうではないか」と言われます。この「論じ合おう」という言葉は法廷用語なので、裁判のときに使われる言葉ですが、注目したいのは、神様は判決を下す裁判官としてではなく、裁判席から被告席まで降りてきて、問題解決の糸口を一緒に見つけ出そうとしておられるということです。その解決のために差し出された提案は、18節に言われるように、すごい恵みであり驚くべきことでした。それは「人間の罪がどれほど深くても、もし悔い改めるなら、神は雪のように白く、あるいは羊の毛のように白くしてくださる」ということです。希望と救いがあるのです。
だから聖書は「悔い改めて、神様に聞き従いましょう」と伝えるのです。
聞くことは知恵のはじめ、主の十字架を知り、心の土台に据えて私たちが「信仰」に生きるためです。信仰とは、教会に来ているときも教会以外の場所であっても、私たちが神様を恐れ、心から神様を信じて、みことばに従って生きようとすることです。「できる」「できない」ではありません。神さまに心を向けて、みことばに生きよう、そうしようとする心です。それを神さまは求めて「論じ合おうではないか」と言われているのです。
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