本日の聖書 マタイによる福音書23章25、26節
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。
宣教題 「偽善者であると気づく」 牧師 新保雅雄
「あなたの隣人を自身のように愛しなさい」と主イエスは言われる。自分を愛してくれる人を愛することはできそうです。しかし自分を憎む者、あるいはその人を愛したからといって、一文の得にもならない人を、「自分自身のように愛する」などということができるでしょうか? できないのです。そうすると「クリスチャンは偽善者だ」などと言われたりする。弱い自分に悩み葛藤する。
それなら「どっちみち人を愛することができないのなら、最初から神なんか信じなければいいじゃあないか。教会なんか行ったって意味がないじゃないか」と居直るのでしょうか。
どうせ出来ないなら、肉の思いのままに生きる、そのほうが自分に正直で、裏表がなくて、「偽善者」と言われることもない。俺は正直もんだ。 決してそうではありません。主イエスは言われます「人間にはできないことも、神にはできる」(ルカ18:27)。
自分の力では何も善いことが出来ない、何をやっても偽善にしかならない。自分も神の御子を十字架につけてしまった一人だと気がついた弟子たちに、復活の主イエスが近づいてきてくださったのです。そしてそこから再び、新しい人生が始まったのです。それが復活の主と共に歩む人生です。
私たちも、「自分の力では、まともに歩めない偽善者である」と気がつくことです。出来ないからと居直るのではなく、出来ないがそうありたい。あきらめず希望を持つことです。主イエスは、そんなあなたを決して見捨てることはありません。
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