2014年7月6日「欠けた自分を知りなさい」

投稿日時 2014-07-06 06:07:23 | カテゴリ: 礼拝説教要旨

本日の聖書  マタイによる福音書23章2〜4節

「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。

宣教題 「欠けた自分を知りなさい」   牧師 新保雅雄


律法を守ることに熱心であったのがユダヤ教のファリサイ派。しかし主イエスから見ると、「彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで実行しない」からだという。なぜなのか。


ファリサイ派の律法の専門家は主イエスに質問しました22:36。

「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」。主イエスは言われた。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい」律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」


律法とは何ですか? 「神さまを愛すること、そして隣人を愛すること」そうすると、律法を守るのは、神さまを愛するから、そして隣人を愛するために、守るということになります。愛するから、神さまの掟を守るのです。しかしファリサイ派の人々は、愛が忘れ去られ守ることだけになってしまった。そして弱者を裁いていく。


彼らは、5節「そのすることは、すべて人に見せるためである」自分が立派で偉い人であるかということを、人に見せるために、律法を守り、敬虔な信仰者を装う。そして「先生」「善人」といわれることを好む。上座に座ることを好む。自分が高められることを好む。


律法を守っているから信仰者である。何々ができるから立派な善い人である。そこに神様の愛、隣人への愛はありません。私達は、守れない欠けたものである。弱い隣人を愛すること、そこに神はおられるのです。水は高いところから低いところに流れるのです。神さまのめぐみも同じです。神を見たいと思うなら低くなることです。






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