本日の聖書 創世記4章 1〜18節(中心13〜15節)
「カインは主に言った。『わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。』:主はカインに言われた。『いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。』主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。」
宣教題 「さすらう者」 北村 紀一
兄のカインは「土を耕す者」になり、弟のアベルは「羊を飼う者」になりました。二人は神さまに「献げ物」をささげて礼拝しました。カインは畑で取れた最初の作物を、アベルは最初に生まれた子羊の中でいちばん太った物を献げて礼拝しました。けれども、神さまはアベルの献げ物は喜んで受け取ってくださったのですけども、カインの献げ物は受け取ってくれませんでした。
もし皆さんがカインの立場だったら、どう思うでしょうか?
私たちは、“自分を認めてほしい”という気持を持っています。カインはこの時、「激しく怒って顔を伏せた」(5節)。顔を伏せたということは、神さまの方を見ない。神さまの顔なんて見たくないということです。それくいらい激しく怒っているのです。
どうして神さまは、アベルの献げ物を受け取り、カインの献げ物は喜んで受け取ってくれなかったのでしょうか?
神さまはカインに、「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないのなら罪は戸口で待ち伏せており」(7節)と語りかけました。それはカインに自分の心に気づいて、悔い改めてほしかったからでしょう。神さまは罰したいのではなく、よくないことであると気付いたならば、カインにも、そして私たちにも悔い改めてほしいと、いつも願っておられるのです。
しかしカインはアベルの方が自分よりも神さまに大事にされている。そういう「ねたみ」の心でいっぱいになって、弟アベルを野原で殺してしまったのです。このように「ねたみ」の気持ちは「恐ろしい力」になります。しかも、私は「知りません」(9節)と罪を隠そうとしました。
このように私たちは罪を犯した時、神様に顔を向けることができなくなります。しかし、ここで学ぶことは、そういった時こそ神さまに向かって、悔い改めることが大事だと言うことです。怖くても向き合う。それは、間違いは間違いだと認める勇気を得ることになりますし、ゆがんだ心も正されていくようになります。心のゆがみが正されると人の喜びを一緒に喜べる心を取り戻すことができるようになるのです。
そういうわけで、常に神様に向き合っていく。神さまに心を向けていく。それが本当に大事なことになります。私たちは信仰によって真実に向き合う生き方を目指し続けるのです。
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