2014年1月26日「わたしもあなたを罪に定めない」

投稿日時 2014-01-26 07:17:18 | カテゴリ: 礼拝説教要旨

本日の聖書 ヨハネによる福音書8章1〜11節

イエスはオリーブ山へ行かれた。 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」


 宣教題 「わたしもあなたを罪に定めない」      北村 紀一

 イエス様は、あなたの罪を赦すために十字架に架かられました。私たちの過去も現在もこれからも起こすであろう罪をすべて負ってくださったのです。そのことによって、わたしたちは、神様に赦されているのです。感謝しても、しきれないほどの恵みです。


 罪を犯して幸せな人は一人もいません。罪を犯すとき、一番傷ついているのは自分自身であり、さらに周りの人をも巻き込んで苦しみが増すわけです。姦通とは、夫婦の関係を裏切り、信頼関係を裏切ることです。これは幸せでしょうか。そのように罪は自分自身の心も、相手の心も深く傷つけてしまいます。ところが罪のない人は一人もいません。それで、イエス様に「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言われたとき、自分はその女性となんら変わらない罪人であることに気付かされます。


「幸せ」とは、神様に信頼して生きること。神様の愛を知り、神様を愛し、自分を愛し、人を愛して、共に生きることです。「幸せ」という目的に向かうことが一番幸せな生き方です。それを忘れると、「ゆるすか、ゆるさないか」だけに焦点があたり、「幸せ」という目的が見えなくなります。神様と人との関係を壊すこと、それが罪なのです。だから私たちは、「幸せ」という目的に向かうための「ゆるし」が必要です。イエス様は、神様と人との関係を修復するために十字架を背負い、あなたの罪は赦されている、と教えてくださったのです。


「ゆるす」ということは、あなたと一緒にいるということ。神様はわたしたちと一緒にいるために、わたしたちを「ゆるす」のです。インマヌエルとは、神様が一緒にいてくださるということです。人を裁くとは、切り捨てること。石を投げることは、あなたにいなくなってほしいと切り捨てることです。「裁き」は関係を切り捨てるけど、「赦し」は関係を繋ぎます。神様はわたしたちと共にいてくださる。イエス様の十字架によって、あなたの罪は赦されている。ゆえに「わたしもあなたを罪に定めない」とイエス様は言われるのです。






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